聞きかじりの邪馬台国と卑弥呼

スポンサーリンク

素人は九州説、専門家は畿内説…!?

なんて宣ってた人がいましたが、わたしもその例に漏れず

卑弥呼の女王国は九州にあったと思っています。

ふとしたきっかけで卑弥呼や邪馬台国に興味をいだいて

さまざまな方々(専門家だけでなく、マニアのような方々の主張も含めて)

聴き比べているうちに、自分なりにそうではないのかな・・・・!?

なんていう結論めいたものを持つようになったので、

わたしなりの卑弥呼、邪馬台国説を披瀝してみようと思います。

スポンサーリンク

邪馬壹国、邪馬臺国ってなんと読む…!?

皆さんはこの字をなんと読むのが正しいと思われますか?

「ヤマタイコク」と読むひともいれば、いや「ヤマコク」

と読むべきだとか、「ヤマイチコク」と読むほうが正しい、

いやいや「ヤマコク」と読むのが正しい…

等々、邪馬台国の国名ですら専門家と呼ばれる人たちの主張がバラバラで、

邪馬台国がどこに存在していたのか…!?

などは、日本各地の様々な場所に邪馬台国が散在しているかのようです。

邪馬台国の所在地。

邪馬壹国の読み方は後回しにして、いわゆるヤマタイコクが

どこにあったのかを探っていこうと思います。

邪馬台国の所在地は、中国の史書、いわゆる「魏志倭人伝」

詳しく??記載されています。

どう記載されているかといえば、次のようです。

”倭人は帯方郡の東南にある大海の中におり、山や島によって国や村を作っている。

もともと百余国あり、(後)漢の時代に朝見にきた国もあった。

今使者や通訳などの往来があるのは30国である。”

といった書き出しで始まりますが、もちろんこれは原文を口語訳したもの。

でも、大意は損なっていないと思うので、この口語訳に沿って

話を勧めていこうと思います。

具体的な距離と方向。

続いて”帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って海を行き、

韓国を経て、あるいは南にあるいは東に進み、倭の北方の対岸にある

狗邪韓国に到着する。この間は七千余里である。

と書かれています。

帯方郡というのは、今のソウル辺りと言われています。

また、狗邪韓国は今の釜山港あたりだそうです。

さらに次の道程に進みます。

”そこから初めて一つの海を渡り、千余里で対馬国に至る。

その大官を卑狗(ヒコ)といい、副官を卑奴母離(ヒナモリ)という。

住んでいるところは絶海の孤島で、広さは四百余里ばかりである。

土地は山が険しく森林が多く、道は獣道のようである。住居は千余戸あるが

良田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き交易している。”

これで対馬まで来たことがわかります。

次いで、”また南に向かって海を渡ること千余里。この海を瀚海(かんかい)という。

壱岐国に至る。官、副官の名は共に対馬国と同じ。周囲は三百里ほどである。

竹や木の密集しているところが多く、三千軒ほどの家がある。少し田があるが

米は不足している。そこで(この国も)また、南北に行き米を仕入れている。”

ここでいう瀚海というのは対馬海峡のこと。

そして壱岐国というのは、今の壱岐の島と言われています。

更に進んで、”また海を渡り千余里末盧国に到着する。四千軒ほどの家がある。

山が海に迫り沿岸沿いに居住している。草や木が茂り前を行く人が見えないほどである。

人々はよく魚やアワビをとっている。海の深い浅いにかかわりなく

みんな潜ってこれらをとっている。

末盧国というのは、今の佐賀県の松浦郡あたりというのが定説のようです。

九州上陸後、”東南に陸行し、五百里伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、

副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觗(へくこ)。千余戸がある。世世、王が居た

皆女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在するところ。”

「伊都国」というのは現在の福岡県の糸島市というのが定説で

この伊都国は邪馬台国にとっては、とても重要な地点です。

そこから、”東南に百里進むと奴国に至る。官は兕馬觚(しまこ)、

副官は卑奴母離(ひなもり)。二万余戸ある。”

「奴国」の比定地も、いろいろの説がありますが、福岡県の春日市あたり

ではないかと言われています。

さらにそこから”東へ百里行くと不弥国に至る。長官は多摸(たも)、

副官は卑奴母離(ひなもり)。千余戸ある。” 

「不弥国」(ふみこく)の比定地もさまざまの説がありますが、

福岡県の飯塚市周辺というのが多数派のようです。

ここまではほとんどの方が、まあ~まあ~認めている?

おおよその比定地といってもよいのではと思います。

ここからが問題。

ここまでは、方角と距離が明記されているので現在の地名と照らし合わせて

なんとかそれぞれの場所を比定することができましたが、

これから先には距離の記載がありません。

これが邪馬台国の所在地を分からなくしている大きな原因です。

どのように記載されているかというと、次のとおりです。

南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。

五万戸余り。”

どうでしょう、これではどこから見て南なのか? それと水行20日とは、どこから

船に乗って20日なのか?川を行くのか、海を行くのかもわかりません。

この後も、距離の記述はなく、更に続きます。

南に水行10日、陸行一月女王の都のある邪馬台国に至る.官に伊支馬(いきま)、

弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)、がおり。

七万余戸あり。”

とありますが、これではどこに邪馬台国があるのかわかりません。

それでも、文章はまだ続きます。

”女王国の以北は、其の戸数、道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は

遠く絶たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。”

として傍国21国の国名だけを紹介しています。

この文章はちょっとわかりにくいですよね、要するに、今までに紹介した以北の国

「対馬国」「壱岐国」「松浦国」「伊都国」「奴国」「不弥国」「邪馬台国」に加えて

「狗奴国」「投馬国」の9国については、距離や戸数などを詳らかにすることができるが

その他の21国については、遠く隔たっているので、詳細を詳らかにすることができない。

ということだと思います。

女王国の傍国 21国。

傍国ということは、かたわらの国ということですから、女王国に隣接する

国々のことと理解しました。

その傍国とは、1.斯馬国(しまこく)福岡県糸島郡志摩町
       2.己百支国(いはきこく)長崎県九十九島
       3.伊邪国(いやこく)福岡県西区周辺
       4.都支国(ときこく)福岡県福岡市博多区
       5.彌奴国(みのこく)県猪郡(現 久留米市)
       6.好古都国(はかたこく)福岡県福岡市博多区
       7.不呼国(ふここく)福岡県福岡市早良区・西区
       8.姐奴国(たのこく)福岡県浮羽郡田主丸町(現 久留米市)
       9.對蘇国(とすこく)佐賀県鳥栖市
      10.蘇奴国(すのorそのこく)長崎県西彼杵郡
      11.呼邑国(はやこく)大分県別府市
      12.華奴蘇奴国(かのすのこく)佐賀県神埼市
      13.鬼国(ひこく)大分県日田市
      14.為吾国(おここく)福岡県小郡市
      15.鬼奴国(ひのこく)佐賀県佐賀市・神崎市
      16.邪馬国(やまこく)福岡県福岡県みやま市・八女市
      17.躬臣国(くすこく)大分県玖珠郡
      18.巴利国(はりこく)佐賀県三養郡中原
      19.支惟国(きいこく)福岡県筑紫野市
      20.鳥奴国(おのこく)福岡県大野城市
      21.奴国(なorのこく)大分県中津市
*比定地及びフリガナは井上悦文氏の「草書体で解く邪馬台国の謎」から引用させていただきましたが、
一部勝手に私が納得できる比定地に改ざんさせていただきました。
此れが女王の境界が尽きるところである。

とあり、これで先にあげた9国と合計すると30国になります。

さらに続いて

”その南には狗奴国(くなこく)がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗

(くこちひこ)が有る。女王国に属せず。

帯方郡から女王国に至る、一万二千余里である。

これが帯方郡から邪馬台国に至る道程です。

様々な説が乱立。

多くの専門家の方たちは、連続説です。

連続説というのは、不弥国から連続して南へ水行10日陸行1月と考える説です。

が、こうすると邪馬台国は九州の外に飛び出してしまいます。

九州説の最大の問題点はここにあるといえます。

そこで、「南」は「東」の書き間違いだろうとして、東へ水行10日陸行1月すれば

近畿地方に到達するというのが、畿内説を唱える人たちの主張です。

一方四国の阿波説をを唱える人たちは、地図上に帯方郡から1万2千里の直線を引くと

ちょうど阿波に達するというのが根拠になっているようです。

その他にもたくさんの説があって、それぞれ納得できるようなできないような、

曖昧模糊としているは、どこにも確たる証拠を示すことができないでいるからです。

確たる証拠というのは、卑弥呼が魏の国から下賜されたという「親魏倭王」の金印や

卑弥呼の墓が発見されない限り、どれも仮説にすぎません。

ただ、魏志倭人伝には「女王国」の東に、千余里を航海するとまた国がある。

みな倭種である。

という一文があります。この一文から九州以外に邪馬台国を比定するのは

かなり無理があるのでは…と思っています。

そこで、自分なりの邪馬台国の比定地を考えてみました。

わたしの考える邪馬台国の場所。

わたしは、邪馬台国の比定地を探すにあたっては、多くの方が指示している連続説ではなく、

いわゆる放射説で考えてみました。起点は「帯方郡」です。

魏志倭人伝には、帯方郡から九州本土(松浦国)までの水行航路の距離を示しています。

ただその航路についての距離が一応示されてはいますが、どうみてもその距離は

かなり大雑把な数字で、例えば狗邪韓国から対馬までと対馬から壱岐国まで

壱岐国から松浦国までではそれぞれ距離が違うのに、全て千余里と表記されています。

ということは、朝出航して夕方到着した一航海を千里。

イコールその一航海を1日と考えても良いのでは…と、わたしなりに解釈しました。

そこで、一航海千里を約一日とすると帯方郡から狗邪韓国まではおおよそ7千余里

ですから帯方郡から狗邪韓国までは7日。その後松浦国までは合計三千余里で三日、

合計10日になります。

これが南へ水行10日の意味ではないかと考えました。

次いで陸行1月ですが、これは九州に上陸してから邪馬台国に至るまでの

陸上を歩いて到達する日数ですが、これも松浦国から不弥国までは

決まったコースだったのでは…と考えています。

その先の里程が示されていないのは、女王国はそこから遠く、定まったコースが

なかったからではなかったのでは…と考えました。

帯方郡から邪馬台国までは1万二千余里と記載されていますが、この里数は

帯方郡から邪馬台国までの直線距離ではなく、そこまでの水行、陸行の累積距離を

示したものだと思っています。

そこで1万二千余里から先程の水行1万余里を引くと残り二千余里弱となります。

この二千余里弱というのは具体的にはどの程度の距離になるかといえば、

帯方郡から狗邪韓国までが約7千余里と書かれていますので、

その約3分の1強ぐらいの距離と考えてよいのではないでしょうか。

その距離を「不弥国」から南に辿ってみると、おおよそ現在の宮崎県の日向あたりに

たどり着きます。

もちろん「不弥国」から邪馬台国まで一直線の道路があったとは思えません。

女王国の傍国のどこかの国に宿泊しながら野越え山超えし、曲がりくねった

道なき道を行くのですから、海上を行く何倍もの時間がかかったに違いありません。

ですから、2千余里を行くのには20日~30日ぐらいは有にかかったろう…

というのがわたしの考えです。

これが邪馬台国までの水行10日陸行一月の解釈ではないかな…と思っています。

ですから、邪馬台国は宮崎県の「日向」を含んだ熊本県地域

だったのでは…と結論づけました。

ちなみに南に水行20日で「投馬国」に至るというのは、陸路を通ると

日数がかかるので、帯方郡から水路で直接20日ほど行くと

鹿児島あたりに着くという意味ではないのかな…と考えています。

女王卑弥呼。

魏志倭人伝には邪馬台国の女王「卑弥呼」のことが次のように記されています。

もとは男王が国を治めていたが、7~80年の間争いが絶えなかった。

そこで女子を共立して王にしたところ、争いが収まった。その女子の名を

「卑弥呼」といい、卑弥呼は鬼道を用いて民衆を上手に惑わした。

歳はすでに長大であったが、夫はなく、弟が彼女を補佐し国を治めていた。

というのが卑弥呼の人となりです。

その卑弥呼が生存していたのは弥生時代の2世紀後半であったことが

わかっています。

ところが、その後6~7世紀に書かれた日本の歴史書「古事記」や「日本書紀」

には、邪馬台国や卑弥呼のことは一切触れられていません。

日本書紀や古事記を日本の歴史書と書きましたが、実際は天皇の系譜を記した天皇紀です。

その天皇紀によれば、初代天皇の神武天皇は、天照大神(アマテラスオオカミ)という

神様の孫で今の宮崎県の日向の地に天から降臨し、そこから九州、四国、中国地方を

征服して行きついに奈良に大和王権を築き、初代天皇になったと書かれています。

わたしは日本書紀や古事記を詳しく読んだことがあるわけではありませんが、

この文章に出会ったとき、とても奇妙な違和感を感じました。

なぜかというと、天皇を特別な存在、天皇の権威を示すため神様の直系であることを

示すために神様の孫として降臨させたのは理解できるのですが、それならばなぜ、

神様が最初に作ったという淡路島に天孫降臨させなかったのか?

なんで奈良から遠く離れた九州の日向(ひむか)に天孫降臨させなければならなかったのか?

それに大和朝廷のヤマトという名前はどこから来たのか?

なぜ、大和からあんなに遠い九州の情勢に詳しいのか…!?

という素朴な疑問、違和感を感じました。

そこで、わたしはあらためて「山壹(臺)国」を古代の中国人はどのように

発音していたのかを調べてみました。

その結果、古代の中国語の発音では「やまどぅ」国というような発音ではなかったか…

という説に出会って合点がいったような気がしました。

これって、結局私たちが発音している『ヤマト』ですよね、つまり邪馬台国というのは

はじめからヤマト国で、大和朝廷の大和もそこからきているのではでは…!?

と考えるようになりました。

それに倭国の倭も「ヤマト」と読めるんですよね…

そこで、なぜ日向の地に天孫降臨しなければならなかったのかの必然性を考えてみました。

欠史8代。

日本書紀に示されている天皇の系譜の中で、2代目の綏靖天皇から9代目の開化天皇までは

実在しない架空の天皇ではないか…というのが定説になっているようで、

そのことを欠史8代とよんでいます。

それはなぜかといえば、

日本書紀にはそれぞれの天皇の在任中にどんなことが行われたかという事績が書かれていますが、

この2代目から8代目の天皇には、そうした事績の記載がなく、

名前と在任期間が記されているだけの上に、寿命が百数十歳を超えている天皇が複数いたりして

明らかに天皇の血筋が、はるか遠く神様の時代からつながっていることを示すために

編纂者が、紀年を延長した形跡が見られるからです。

では、初代の天皇「神武天皇」は実在した人物なのか…!?

と、問われるとわたしにはなんとも答えられませんが、この初代天皇が日向の地から

東征して奈良に大和王権を築いたという、いわゆる「神武東征」を考えてみました。

その神武天皇とはどんな人(ではなく神)かというと、

天照大神(アマテラスオオカミ)という神様の孫ということになっているので、

人ではなく神様そのものなのです。

といっても天照大神が誰かと結婚してつくった子供の子供というわけではありません。

えっ?孫なのに…と思われるかもしれませんが、神様の世界の話ですから

とても我々には信じがたい方法で神武天皇は生まれたのです。

それは天照大神とその弟の素戔嗚尊(スサノウノミコト)との間に誓約(うけい)という

意味不明な方法(素戔嗚尊が天照大神の首飾りか何かを噛み砕いて吐き出した霧の中から

生まれた子供が、後に結婚して生んだ子がニニギノミコト)神武天皇なのだそうです。

この話を丸々信じられる人がいるとは思えませんが、でも、天皇を現人神にするには

このような物語を創作する必要があったのは十分理解できます。

けれど、こうした話を前後のストーリーに矛盾を感じさせないように創作するのは

そう簡単ではないはずです。

創作のヒントになるモデルが存在していたのでは…というより、

モデルが存在していたからこそ日向に降臨させなければならなかったのではないか…

と考えました。

そのモデルこそ「卑弥呼」では! と思うのです。

それはどういうことかというと、日本書紀の歴史をそのまま受け入れると

神武天皇は紀元前660年には存在していたことになります。

紀元前660年といえば、まだ稲作も行われていず、文字もなかった縄文時代です。

そんな以前に天皇が存在し、大和王権が確立されていたとはとても考えられません。

そこで、さきほど述べた欠史8代分や天皇の事績が示されていない天皇などの

年数を省いていくと卑弥呼の邪馬台国時代(2~3世紀)頃に相当します。

想像、妄想による結論。

卑弥呼がなぜみんなから選ばれて女王になることができたのか…?

を想像してみました。

ある人が神格化されるには、その人にそれだけの実績がなければならないのは当然ですが、

それ以外にみんなにその人の日常などの全貌が知られていないこと、

どこか神秘のベールに包まれている部分が必要だと思います。

そうして考えてみると、卑弥呼というのはある地方で名を馳せていた占い師とか

神のお告げを仲介する巫女的な人だったのでしょうが、そう身分の低い人ではなく

地方の豪族の娘(姫巫女)ではなかったのかな…なんて想像しています。

その卑弥呼がどこで生まれたかというと、日向の地ではなかったのではないでしょうか…

なぜなら、古事記によると天照大神はこの日向で誕生しているからです。

(古事記によればイザナギノミコトが黄泉の国から逃れて日向の地で禊(みそぎ)をしたとき

左の目から生まれたのが天照大神で、鼻から生まれたのが素戔嗚尊ということに

なっているからです。)

この頃、この日向には日向一族とでも呼ばれるような豪族が存在していて、

卑弥呼はその一族の長の娘だったような気がしています。

その卑弥呼がヤマタイコクの女王になったことで、この日向一族も次第に権力をましてゆき

卑弥呼の女王国、すなわち山壹国(やまとこく)と共に勢力圏を広げていった結果が、

神武東征として描かれ、女王卑弥呼を天照大神という神様に仕立て上げたのでは

ないでしょうか…!!

だからこそ神武天皇を日向に天孫降臨させる必要があり、天照大神も日向で

生まれなければならなかったのだと思います。

それだからこそ奈良県から遠い九州の情勢にも精通していたのではなかったのでは

ないでしょうか…。

これでヤマタイコクも大和朝廷も同じ「ヤマト」で納得。

卑弥呼もイコール天照大神で納得!!という結論に達しました。

最後の最後に。

長々と書きましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ここまでの話で納得された方がいらっしゃるかどうかはわかりませんが、

逆に異論・反論をお持ちの方は多数いらっしゃるのでは…と思っています。

ただ、ここに示した説はあくまでも素人の想像・妄想

専門家や古代史マニアの方のように資料や遺跡などを詳しく調査をして得た結果ではなく、

ネットやYoutubeの情報をつまみ食いして得ただけの結論なので、

批判の対象にもならないようなものだと自覚しています。

けれど、前述したように確たる証拠が見つかるまでは、どれも単なる仮説です。

そうした中で偉そうに「もう決まっているんですよ!」などと自説を主張する

大先生!?もいます。

このような傲慢な専門家と言われる人の言動に反発する気持ちもあって、

自説をアップする気になった部分もあります。

事実は小説や仮説よりも「奇」ではないのかな…と思っています。

いつの日か確実な物証がでてきたとき、さまざまな仮説が裁かれ、新たな道筋が

示されることを願っています。

また、批判にも値しないこんな自説でも、これを読んだことで古代史に興味を持ったり、

天皇制のなんたるか…等々を考えるきっかけになってくれたら嬉しいなと思っています。

併せて「ヤマトタケルとスサノオスサノウと神社」も読んでいただけると嬉しいです。

タイトルとURLをコピーしました