悪ガキ3人組が2人になって…

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社会人になってからの2人…。

悪がき3人組も山鹿が亡くなり、田辺とわたしの2人になってしまいました…

2人になっても田辺とわたしの付き合いは相変わらずで、しかも
田辺が地方公務員になったことで、横浜駅近くに通勤するようになったことから
金沢文庫にいるときよりもずっと会いやすくなりました…。

ところで、その頃って(中学校から高校卒業時くらいにかけての頃)世界中の音楽が
津波のように押し寄せてきていた時代でした。

アメリカンポップス、カントリー&ウエスタン、ジャズ、ラテン、タンゴ、シャンソン、
ハワイアン、映画音楽…等々数え切れないほどさまざまな音楽が溢れていました。

そんな中、わたしも田辺もその波にどっぷり浸かっていて、高校時代はプレスリーを
中心にしたアメリカンポップスをよく聞いていましたが、卒業する頃からJAZZに惹かれ
はじめ、市内のJAZZ喫茶に二人で足繁く通うようになっていました。

といっても、ジャズ喫茶に入り浸りというわけではなく、その他の娯楽も興味深々で
金もないのに当時流行り始めたボウリングにも夢中になったり、相変わらず玉突きを
したり、麻雀をやったり…で、生活感のない日々を送っていました…

山鹿のお父さんに呼ばれて…

そんなあるとき、山鹿のお父さんから山鹿が生前仲の良かった、わたしと田辺と
中学校時代の同級生H君(彼はクラスは違っていましたが、同じ高校で山鹿を通じて
よく知っていた仲)の3人に思い出話しでもしに来てくれないか…

という誘いがあり、わたしたち3人は喜んで山鹿の家に集合しました。

ひとしきり山鹿の思い出話しに花が咲いたあと、お父さんはわたし達に向かって
「君たちは麻雀がうまいんだろ…」というので「いやいや…」なんて笑って受け答え
していたら、お父さんが「実はわたしも麻雀を覚えたんですよ」「せっかくだから
お手合わせ願えませんか…」というのです。

わたし達は「じゃ、賭けずにやりましょう」と言ったのですが、
お父さんは「それじゃつまらないだろうから、点3でやりましょう」
といって、麻雀牌を取りに行きました。

弱りました…!!!!

3人顔を見合わせ、お互いに「おまえ金持ってる?」と聞くのですが、
誰も帰りの電車賃ぐらいしか持っていません…!

点3とはいえ、負けたら2~3千円ぐらいは覚悟しなければなりません。

私達3人はすでに社会人です。

それが2万3万負けて、すみません今日は持ち合わせが…というなら、
少しは格好がつきますが、
たかが千円二千円負けて今日は…

というのはさすがに恥ずかしくて言えません…!

そこで、3人同じ思いで決心しました!

覚えたてのお父さんとはいえ、手心無用!絶対に勝つ!

これしかない!と覚悟を決め、卓を囲むことにしました…

麻雀歴、腕の差があると言っても、偶然性の比率の高いのがこの麻雀!

何が起こるかわかりません。

そのことを3人共熟知しているだけに、みんな真剣です。

絶対に負けられないのですから…

3人必至の形相?で半荘ニ回無事終了! 

結果、3人共プラスになり、お父さんの一人負け。

ほっとひと安心です!

それでお父さんは「やっぱり君たちは強いね…、今精算するからね」
と言って奥の部屋に行こうとするので、わたし達は幾度もお断りしましたが
お父さんは約束だから…といって聞きません。

そのうちお父さんは奥の部屋へお金を取りに行ったのでしょう…
よくその辺で見る豚の形をした貯金箱を持って戻ってきました。

チャラチャラ音のするその貯金箱の中から小銭を取り出して
わたし達に支払いを始めたのです…

えっ!!!

ここで初めて気づきました!

麻雀を知っている人なら誰でもわかると思いますが、点3と言ったら千点30円のこと
ですよね、それが普通です。

しかしお父さんの言う[点3]は、文字通りの千点3円だったのです…!!!

いや~千点3円なら、負けても数十円~数百円です。

それくらいならいくらわたし達でも持ってました!
笑って払える金額です…

それなのに目の色変えて負けまいとした自分たちが、恥ずかしいというか
おかしいというか…

知っていればな…
と悔やんでも後の祭り…。


その帰り道、3人は顔を見合わせては、

”なんで負けてやらないんだよ!”

”恥ずかしいだろ!麻雀覚えたばかりの人相手に、目の色変えて…!”

”全く!なんであんなに力を入れて打つんだよ…!”

”少しは手心ってものがあるだろ…!”

ま~、さんざんお互いをけなしあって悔やむことしきり…

でも、笑うしかありませんでした……

初めてのスキー!

ボウリングにしろスキーにしろ麻雀にしろ、初めて何かをやるときはいつも田辺と一緒。

お互いスキーは全く経験がなかったので、一度スキーをやってみようということになり、
たしか、長野県温泉スキー場だったと思うのですが、とにかくスキー場へ行きました。

どこに泊まったのかも覚えていませんが、確かそこでスキーを借りてリフト券売り場
まで行きました。

リフト券売り場の前まできて、生まれて初めてのスキーを履きましたが
どうやって目の前の売り場まで行ったら良いのかわかりません…。

なにせ初めて履いたスキー、歩くことも方向転換することもできないのですから
その場に身動きできず立ち往生していました。

そんなわたし達を見かねた見知らぬ人が、方向転換や歩き方を親切に教えてくれました。

おかげで、なんとか売り場までたどり着き、リフト券を買うことができました。

それでリフトに乗ってゲレンデの頂上に着きましたが、頂上についてビックリ!

初めて見るゲレンデの勾配は、スキーを初めて履いた2人にはとても滑り降りられる
ような代物ではありません!

参りました!

おまけに何も知らないわたしはカメラまで肩にかけて頂上まできていたのですから…

どうやって降りたらいいのか…

スキーを脱いでゲレンデの脇を歩いて降りるか…

けれど、そうすると新雪に潜ってしまって歩けなくなりそうだし…

かなりの時間迷っていましたが、ある方法を思いつきました。

それは、ゲレンデの脇に生えている木を目標に斜めにまっすぐ滑ってゆき、
その木の手前でスライディングする、そうして、そこで立ち上がって、また
次の目標を定めてスライディングする…
その繰り返しで下まで降りて行く。

2人ともこの方法で行くことに決定!

この方法は大成功でした。

真っ直ぐだけなら自分たちでも滑ることができましたので、そのことが自信になり
少し恐怖感からは開放され、無事下まで降りることができました。

下に降りてからは、他の人の真似をしてボーゲンの練習などをしたのは
言うまでもありません。

こんなことがあって、翌年、田辺の家の実家(新潟県の弥彦山の麓)に一泊させて
もらってスキーをしたり、その後1、2度二人でスキーに行きましたが
大して上達もせずに、スキーに行くことはなくなってしまいました…

でも、この最初の宿で食べた野沢菜の漬物の味と、田辺の家の実家で嫌というほど
日本酒を飲まされたのが、忘れられない思い出になりました。

その頃の2人 向かって左が田辺 右が自分 お揃いのスーツを着てどこに
行こうとしてたのか…、バックは山下公園。

今、そんな思い出にふけりながら書いています…

ジャズと彼女と…

田辺と二人、ジャズを聞き始めていたというのは先程書きましたが、ジャズを聞くのは
ジャズ喫茶だけでなく、当時ラジオではディスクジョッキー番組が盛んで
そうしたディスクジョッキー番組を聞くのも楽しみのひとつでした。

そんなジャズ番組の中のひとつに、ラジオ関東(現ラジオ日本)の確か夜の10時半頃
から始まる、チコ・ハミルトンのマレットで叩くドラムのイントロが印象的な
ミッドナイトジャズという番組があり、選曲もさることながら
モンティー本多(本多俊夫)さんの語りを聞くのも楽しみでよく聞いていました。

という話を、あるとき彼女に話したことがあります。

すると、その返事に驚きました。

なんとその番組のディレクターは自分の姉の旦那さんだというのです!

その彼女というのは、以前書いた”悪ガキ3人組”で知り合った彼女ですが
その後もずっと付き合いが続いていました。

話は少しそれますが、その彼女の家は上から下まで全員女という珍しい家族。

わたしが知り合った頃はまだ祖母さんも存命で、お母さん、長女、次女が私と付き
合っている彼女、その下に当時中学生の三女、その下に小学校に上がったばかりの
四女がいて、父親は数年前に亡くなられていましたので、全く女だけの家族でした。

さて、そのミッドナイトジャズの話がきっかけで、彼女のお姉さんの家に頻繁に
出入りするようになりましたが、そこに田辺も加わるようになって始まったのが
麻雀大会です。

それはほぼ定期的に行われ、楽しみの一つになっていましたが、楽しみは麻雀だけでなく
その家にある膨大なジャズのレコードが聞けたり、2抜け(麻雀で2番めになった人が1回
抜けること)で、次の順番を待っている間に ”たっちゃん、いい曲聞かせようか…”
などといってわたし好みのジャズを聞かせてもらったり、ときどきレコード盤を頂くこと
などもあったり、ジャズコンサートの招待券を頂くこともあったりで
ますますジャズに接する機会が増えていきました。

ところで、その頃わたしはまだ測量士の手伝いをしていて、地方への出張の多い日々が
多かったので、せっかく頂いた招待券も彼女と一緒に行けない日があったりしたのですが
そんなときには、わたしの代わりに田辺が彼女を連れていってくれたりもしていました。

そんな生活が2~3年も続いたでしょうか…

その後、彼女とわたしは同棲生活を経て結婚に至りました。

その間に、彼女の妹(三女)もすでに高校を卒業し、社会人になって会社勤めをして
いました…。

そこで、わたしははあることを思いつきました。

田辺とその妹をを引き合わせてみようと考えたのです。

妹ははじめ、照れからでしょう嫌だと言ってましたが、後日わたしに「会ってみる」
というので、あらためて田辺に引き合わせました。

その結果この作戦は大成功で、二人はそのまま順調に交際が続き、結婚へと進展!

わたしと田辺は義兄弟の仲になりました。

破局!

田辺夫婦はその後長男を出産し、順調な結婚生活を送っていたようですが、

わたし達の方は、長すぎた春だったのでしょうか…?!

いつのまにか2人の間に隙間風が吹き、破局を迎え…

離婚に至ってしまいました。

再婚!

その後、今の妻と再婚。

このことがわたしの中で、田辺夫婦だけでなく、前妻の親族に対しての負い目
というか、引け目というか、後ろめたいというか、申し訳ないというか…

そんないろいろな感情が入り混じっていて

以来田辺との連絡を取ることがなくなりました……

リトルジョン・オープン!

再婚後しばらくして横浜駅近くの賃貸マンションで暮らすようになり、娘はそこで
産まれました。

このマンションは駅から徒歩5分ぐらいのところにあるので、利便性は抜群なのですが
子育てには、お世辞にも向いているとは言い難いところ。なにせマンションの目の前が
ラブホテルという環境で、近くの公園に行くにも車の通りの多い大通りを渡らないと
行けないので、娘の遊び場は横浜高島屋の屋上が主体になっていました。

その娘が3歳を迎えた頃、このマンションの取り壊しの話が持ち上がりました。

仕事やお金の心配がなければどうということもない話なのですが、その時のわたしは
仕事に行き詰まりを感じていて、将来への不安で頭がいっぱいいっぱいだったところに、
数年前から友達と約束していたジャズ喫茶の立ち上げも迫っていたので、余計に頭の
中がパニック状態でした…

その友達の茂呂君は大学を卒業後、わたしとジャズ喫茶を立ち上げるために、一般の
会社に就職もせず、収入の多い瓦屋さんの仕事をしてお金をため、その日を迎えたの
ですから、今更抜けることなどは考えられません。

引越し先をどこにするか…、この先、今の仕事をどうするか…

先が見えないままにジャズ喫茶「リトルジョン」の開店準備が始まりました。

色々考えても、とにかく「リトルジョンを」オープンさせなければ何も始められない
と考え、全てはオープンしてからにしようと決心しました。

ロゴや案内状、看板の作成、店内の装飾、テーブル、椅子、食器類の購入、我が家にある
レコード盤やスピーカー(アルテックA7)の搬入…等々、バタバタしながらなんとか
オープンにこぎつけることができました。

でも、じぶんの悩みは、まだまだ解決できてないままで、1ヶ月ほど店を手伝って
いましたが、いよいよ決断しなければならない時期に達していました…

リトルジョンの内部。ただしこの写真はオープンからおおよそ30年以上経ってからのものです。後ろのスピーカーがアルテックA7。
リトルジョンの外観。これも左の写真と同じ日に撮った
ものですが、多分今も変わってないと思います。

心機一転!

リトルジョンを手伝いながら、考えぬいた結論は今の仕事をスパッと辞める!

その上で、しがらみのないところに移って、新しい仕事で最初からやり直す!

という結論に達し、茂呂くんと聞き慣れたA7にも別れを告げて現在の地埼玉県に移住。

移住してからも色々ありましたが、ひょんなことから今の職業、ペンキ屋になって
30余年が経った頃、フェイスブックに一通のメールが届きました。

”父が会いたがっています!

という田辺の娘さんからのメールです!

あまりにも唐突で、驚いたのは言うまでもありませんが、ただならぬこと…
という想像はすぐにつきました。

直ぐに連絡を取って、疎遠になってから一度も訪れたことのない田辺の家に
向かいました。

30年ぶりの再開!

30年ぶりと言っても、会えば昔と変わらぬ二人。

会った瞬間に30年という時間の経過は消えて、あの麻雀をしていた頃の二人に戻った
ようでした。

そして、奥さんは…と本来は言うのでしょうが、わたしは彼女をちゃん付けでしか
呼んだことがないので、相変わらずちゃん付けのまま会話を交わしました。

その彼女は昔ベンチャーズを聞いていた頃の彼女ではなく、しっかりとした主婦然
としていて、思わず大人になったね…なんて口走ってしまいました…

その彼女がわたしに告げたのは、田辺が肺がんを患っていて、入退院を繰り返している
というのです。しかも、ステージ4にまで進行しているとのことでした…

しかし、田辺の様子を見ていると全くそのようなことを感じさせませんでしたので
回復に向かっているのでは…と思えるほどでした。

けれど彼女(奥さん)だけは今の田辺がどんな状態なのかを理解していたのでしょう。

だからこそ、田辺の望む全てを叶えてやろう!悔いは残すまい…
との思いが言葉の端々に感じられました。

しかし話は変わりますが、縁というか、運というか…

もし、娘さんがわたしをフェースブックで見つけてくれてなかったら…
と思うと、ほんとによくぞ見つけてくれたな…と感謝しかありません。

なぜって、わたしは田辺に引越し先の住所も電話番号も知らせていなかったのです
から、もし見つけてもらえてなかったらこの家に来ることも現在の状況を知ることも
叶わなかったのですから…

娘さんが見つけてくれたおかげで、こうして田辺夫婦に会えただけでなく、
その娘さんご夫婦や、息子さんご夫婦にも会うことができました。

それと、ずっと気になっていた先妻の妹、当時小学生だった(四女)にも後に
会うことができたのです。
その四女にも立派な息子さんがいて、あの小学校時代の四女とは見違えるようで
さすがに30年の時間の経過を感じずにはいられませんでした…。

それからの二人…

田辺の病状がそのような状態でも、わたしが何かをしてやれるわけではありません…

でもその代わりに、彼女(奥さん)が二人で若いときによく行っていた西伊豆・仁科
の民宿を二人で訪ねてみたり、(この民宿はわたしも一緒したことがあり、大きな皿
に山盛りに盛られたトコブシを食べたりした、懐かしい思い出がありましたが、すでに
その民宿はなくなっていたそうです…。)

この他にも、娘さんの嫁ぎ先の名古屋を二人で訪れたり…と、彼女は精一杯の気遣いを
みせていました。

それに比べ、わたしのできることといったら、田辺と最初に口をきくきっかけとなった
音楽のCDを自分なりに編集して届けにくるぐらいしかできませんでしたが、そんなこと
を何度かくりかえしていた頃、ヨコハマジャズプロムナードの招待券が、先に話した
先妻のお姉さんのご主人、今は田辺の義兄にあたる人から送られてきているので一緒に
行くことになりました。

このジャズプロムナードには、リトルジョンも参加していましたので、田辺と一緒に
リトルジョンにも訪れる約束をしました。

当日はいかにリトルジョンといえど混雑が予想されましたので、
数日前にリトルジョンを訪れ、当日は二人分の席を開けておいてもらうため、
久しぶりにリトルジョンに行ったときに撮ったのが先に載せた写真です

ジャズプロムナードの当日、田辺は自分の家の庭で採れた柿をわざわざ持って来てくれ
て待ち合わせ場所に現れました。

とても元気で、わたしを先導してあちこち回って、昼飯まで奢ってくれました…

その日は関内付近のあちこちでジャズのライブ演奏が行われていて、何箇所かの
ライブ会場で演奏を聞いた後、最後にリトルジョンを訪れました。

そこで初めて茂呂くんに田辺を引き合わせましたが、たくさんの客がいる中でしたので
大した会話もかわせずじまいで、演奏を楽しんで店をあとにしました。

再入院

そんな事があってから、その年の翌年だったと思うのですが田辺が再入院したと
知らされました。

その年はとても雪の多い年で、その日もたくさんの雪が降った日でした。
田辺の入院している病院は長い坂の上にあり、その坂一面が雪に覆われていて、
革靴が雪に潜るほどでした。

病室に入ると、すでにいつもの雰囲気はなく、田辺の眠るベッドの傍らに一睡もせずに
付き添っていたと思われる彼女が、田辺に向かって”落合さんが来てくれたよ”と声を
かけてくれると、その声に反応してうなずいてくれたように見えました。

彼の手を握ると、まだまだぬくもりがあり、温かい手でした…

彼女や息子さん、娘さんに何を語りかけたらよいのか…

その言葉も見つからず、ご家族にあとを託して病院をあとにしましたが、
結局それが最後になってしまいました…

その後

2014年の2月23日、70歳の春を待たずに彼が息を引き取った…と知らされました。

そして一人になって…

その後、葬儀、納骨、1周忌の法要と世間一般の流れ通りの法要が営まれた翌年、
わたしは一度だけ彼の墓を訪れてみました。

墓の前で、あの悪ガキ3人組が、山鹿が亡くなり、田辺まで先に逝ってしまって…
今こうして自分一人だけが生き残ってるのはなぜなんだろう…
なんてぼんやり考えていました。

すると山鹿と田辺が現れて”お前は甘いよ!まだなんにも苦労してないじゃん!
もっと苦労してから来いよ!”って2人が笑ってる声が聞こえてくるようでした。

わたしは「千の風になって」という唄の ”私はそこにはいません”
という歌詞が好きです。

なぜって、わたしもそう思っているからです。

田辺も山鹿も墓の中なんかにはいません!

田辺と山鹿に関わったすべての人の心のなかにこそいます!

わたしも人並みに沢山の人との出会いと別れを経験してきました。けれど
俺、お前と呼びあえる友達は田辺と山鹿しかいません。

だから、これから先も2人は私の心の中でずっとずっと生き続け、わたしが死んだら
「オッス!」といって、奴らは笑って仲間に入れてくれるはずです…。

そう思ってここまで書きました。

いつかわたしが死んだら、3人で笑って遊んでいる姿を想像してください…

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

”悪ガキ3人組” ”悪ガキ3人組(後編)” も併せて読んでいただけたら嬉しいです。

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