少年ケニヤと横浜ドルヒン

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少年ケニヤをご存じでしょうか…?

少年ケニヤをご存じの方はわたしと同年代(私は昭和19年生れ)くらいの男性だろうと思うのですが、この少年ケニヤは、いわば日本版ターザンのような絵物語で、産経新聞にかなり長い間連載されていたように記憶しているのですが、当時わたしはこの少年ケニヤが大好きで、次はどうなるのだろう…と、とても楽しみにしていました…。

その頃の私は手塚治治虫の漫画に夢中で、少年ケニヤのようないわゆる絵物語と呼ばれる、形式の画風はあまり好きではなかったのですが、この少年ケニヤの作家山川惣治さんの絵だけは特別でした。

そんな少年ケニヤと横浜の根岸にある『ドルヒン』のつながりの話をしようと思います。

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長崎県出身のK君の話から…

少年ケニヤとドルヒンの話をする前に、まずはK君の紹介をしておかないと、この話が成り立たないのでまずは彼の紹介から…

彼は長崎県出身でわたしより2つほど年下の底抜けに人の良い男で、彼の得意はビリヤード、3クッションの腕前は相当のもので、年下でも彼はわたしのビリヤードの先生です。

彼はいわゆる一般的な常識からは大きく外れているところがあって、夜中に急に私の家に来て、これから箱根にいきましょうよ!運転は俺がするから…なんていうようなところがあるのですが、なぜか憎めない男なのです…。

初めて彼に出会った頃の私は、まだ東京のデザイナーのもとでデザインを学んでいる頃だったので、収入が有りませんでしたので、常に何かしらのアルバイトをしていた頃でした。

そんな状態の時、彼に長崎行きを誘われました。

彼の家は家族でタンク(街でよく見かける石油タンクのことです)の製造をする仕事を請け負っているようで、その時の現場がたまたま長崎ということで、その仕事を手伝いがてら九州を一周しようというのです。

そこで、彼の家のクラウンのライトバンの後ろに二人が寝られるように布団を敷いて、交代で九州まで運転していきました。

長崎について現場に行っても、実際はわたしらが手伝えるものなんてほとんどなく、遊び9、仕事1くらいの割合でしたから、その間長崎を起点に九州のほとんどを金欠旅行で巡ることができました。

そんな仲の二人がある日(1969年頃)、なんの用事があってあんなところを通りがかったのか全く記憶がないのですが、山元町方面から根岸の競馬場跡(現・森林公園)の脇を通って、そのまま道なりに進むといわゆるアメリカ村(進駐軍の住宅街で、まさにアメリカそのものの感じがするところでしたが、現在は日本に変換され封鎖されているそうです。)に行くのですが、その途中の左側に根岸に降りる坂があって、その曲がり角に工事中の店舗がありました。

旧根岸競馬場跡 現在森林公園
現在のドルヒン

で、二人は『へ~こんなところに、なにができるんだろう…?』と思って、玄関先まで行ってみると、内装中のようでしたが、中へ入っていけそうだったので少し先まで進んでみると、壁に少年ケニヤの絵が飾られているので驚いていると、奥から初老のオーナーらしき人がやってきました。

もちろんこの方にお目にかかるのは初めてなのですが、とっさに『山川先生ですか!?』とお尋ねすると、微笑んで『そうですよ…』と、われわれが勝手に入ってきたことを咎めもせずに快く応対してくれました。それで、少年ケニヤの作者の山川惣治さんがこのドルヒンのオーナーだということがわかりました。

とても感激でした!、それでオープンしたら必ず来ます!といって、その日はその場を立ち去ってきました…。(この頃のドルヒンは白壁の平屋づくりでしたよ…)

約束通りドルヒンへ…

その日からしばらくして、我が家にいつも集まってくるインターナショナルスクールの卒業生数人と一緒にK君も来ていましたので、みんなでドルヒンに行くことにしました。

店内はできたばかりなのでとてもきれいで、豪華な感じがしましたが、オーナーの顔は見られませんでした。さっそくみんなそれぞれのものを注文をして談笑をしながら飲食をしていましたが、突然Kくんが大きな声で、『これ、わるくなってる!』というのです。

それでみんなびっくりしてどうしたの?と聞くと、彼はパフェだったと思うのですが、パフェを指さして、これ酸っぱい!と言い出したのです。

そこで、店長さんを呼び出して味見をしてもらいましたが、なんともありませんが…、とケゲンな顔をしています。

それでリーダー格のOくんが、店長と同じようにK君のスプーンでその部分を舐めた瞬間に、彼は大笑いしました、「お前これヨーグルトだよ!、ヨーグルト食べたことないんだろう…!」

だったのです…!

可哀想にK君はそれ以来この話で、いつもいびられるようになってしまいました…

そんな思い出のあるドルヒンですが、その後一、二度行ったぐらいでわたしは埼玉に移住してしまったので、その後のドルヒンのことはほとんど頭から離れてしまっていましたが、いつであったかユーミンの歌の中にドルヒンが出てきただけでなく、それ以前に、彼女が一人で八王子からこのドルヒンに足繁く通って、山川惣治さんのペン画を鑑賞していたということを知り、余計にびっくりしました…。

以来、それでここはユーミンの聖地というんだそうですね…

その後の山川惣治さん…

そんな思い出のあるドルヒンですが、埼玉に移り住んでからは、たまに横浜の話題が出たときぐらいにしか思い出すこともありませんでした…。

それがつい先日、(2024年の2月)に何気なくyoutube を見ていたら、昔わたしが住んでいた横浜の家の近くの、最近の町並みがアップされていました…。

その動画に映し出された最近の町並みは、わたしが住んでいた40数年前の町並みとはかけ離れていて、動画を撮っている人の解説を聞きながら、そうじゃないんだよ昔は…、といった想いが強くなり、数十年間行ってなかった横浜に行ってみたくなりました…。

それで、あのドルヒンやオーナーの山川惣治さんはどうなっているのだろうと思い、ネットで検索してみると、驚くことを知ることになってしまいました…

ウィキペディアによれば、山川惣治さんはドルヒンを経営して過ごされていたある時、手形詐欺にあってしまい、ドルヒンが破産してしまったというのです。

しかもそのため、一家離散し借金に追われ、住居を転々とする生活を送っていたそうです。

ここまで読んだら、なんだか力が抜けるような想いがしました。

あのときのあの温和で、優さしい笑みが頭に浮かんできたからです…

誰も順風満帆のまま何事もなく人生を歩める人というのは、そうはいないんだな…という思いを改めて強く感じました…。

ただ、その後山川惣治さんの窮状を知った角川文庫の角川春樹さんが、即断即決で、大量の復刻版や映画にするなどの援助をして、角川さんの提供したマンションで山川惣治さんは余生を過ごすことができたようなのですが、1992年、84歳で逝去なさったとウィキペディアに書かれていました…。

横浜が遠くなりました…

こうしたネット上の記事を見ているうちに、横浜に行こうという気持ちが次第に薄らいできました…

あのドルヒンが山川惣治さんの手から離れて、違う方が経営をなさっているということを知ると、なんだかわたしには魅力の薄いものになってしまいました…。

それと、あのK君もその後結婚して2人の子供に恵まれ、子供が成長したころに市内でコンビニを始めたのですがうまくゆかず、自己破産したと聞かされました…、それでも、その後何度か埼玉の我が家にも来たりしていたのですが、いつか連絡も途絶えてしまって、今更尋ねるのもなんだか…、という気持ちになっていたりしています…

また、ついでに10年も行っていないリトルジョン(横浜ジャズプロムナードのときに田辺と行ったきり…)はどうなっているのか、気になって検索してみたところ、なんと見知らぬ人がオーナーになっているようで…、これから確認しようと思っているのですが、なにか心が落ち着かず確認するのをためらって、今日になっています…

いずれにしても、自分の過ごした横浜ははるか昔の想い出の街で、年々遠ざかるばかりのようです…

ふるさとは遠きにありて思うもの、ですかね…

それでもいつか、様変わりした横浜を訪ねてみようと思っています…。

わたしの青春が丸々詰まっている街なのですからね…

いつか、様変わりした横浜の記事を書いてみようかな…とも思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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