わたしは、17歳頃から生意気心でタバコを覚えて、40代前半までおおよそ20年間たばこを吸い続けていました。
はじめの頃は興味本位で吸っていただけなので、大した量も吸っていなかったと思うのですが、25,6歳を過ぎた頃になると、かなりのヘビースモーカーというより、いわゆるチェーンスモーカーになっていました…。
それが40代半ば頃だったと思うのですが、禁煙を思い立ち、その日依頼1本もタバコをを吸うことなく80歳の今日に至っています…。
そんな禁煙に至った過程を書いてみようと思います。
禁煙に至るまでの、長~い話の始まり…
この禁煙の話を書くには、自分の心の中にはかなりの抵抗がありました…
それは、自分の話したくない部分をさらけださないと禁煙の話に至らないからです。
わたしの現在の職業は塗装業ですが、20代から30代までは、横浜で広告関係の3流4流のグラフィックデザイナーとして仕事をしていました…。
本牧の小さなアパートで細々と仕事をしていたのですが、ある日友人に横浜駅に近い賃貸マンションを紹介され、そこに移転することにしました。
そこは横浜駅西口にほど近い場所にあり、8階建ての8階の部屋に仕事場兼住居として住むことになりました。
入居して驚いたのですが、7階には当時全盛期の青木功ご夫婦と青木選手のお母さんが住んでいましたので、あ~、あの青木選手の住んでるマンションね…なんて言われることもありました。
ここに移ると、すぐに若い人たちがまたまた押し寄せて来ました、以前あの6畳一間のアパートに集まってきていた連中ですが、あの頃高校生だった彼らも みんな社会人になって、それぞれの道で活躍していて、この若い人たちにわたしは大いに助けられました。
当時のデザインは今と違って全てが手書きなので、紙はもとより製図用具や絵の具等々必要な用具がかなり多岐にわたっていましたが、これらに関する会社に勤めている彼らは、製図道具や紙も大量に持ってきてくれて大いに助けられました…。
仕事とタバコとコーヒー…
この当時、仕事は市内の広告代理店や印刷所の他に、都内の出版社や広告代理店などからも仕事を得ていましたが、今と違って仕事のすべてがアナログ仕様なので、印刷して仕上がるまでには大変な工程数が必要な時代でした…。
制作依頼があると、はじめに依頼者から制作意図や目的などを聞くことから始まり、その要請に沿ったサムネイル(実際の大きさではなく、小さなサイズでおおよそのアイディアスケッチ)を何点かを提示するのですが、このサムネイルを見て仕上がりを想定できるのは、同業者ぐらいで、一般の人はどうしても実物大の仕上がり見本を望むので、実物と同じように絵も文字も手書きで仕上げることになります。(今のようにパソコンがあったら、何の苦もなかったんですけどね…)
それが採用されても、そのままでは印刷できませんので、それをもとに写真が必要ならカメラマンに、キャッチフレーズなどの文章はコピーライターに以来して、写真を撮ったり、文章を作ってもらってから、採用された仕上がり見本通りに仕上げるための版下(印刷をするための原稿)を作らなければなりません。
版下を完成させるためには、文字の書体や大きさ、文字の間隔、文字の行間などを指定して写植(活字を和文タイプのようなもので打ち込んで印画紙に焼き付けたもの)やさんに以来、仕上がった印画紙を切って台紙に貼り付け、写真の配置を指定したり、色指定などして、印刷屋さんにわたしますが、その後校正刷りが上がってきて、写真の色などをチェックしたあとに、初めて印刷工程に入るというなが~い工程が必要だったのです。(今はパソコンで仕上げたものを、PDFで送ればあっという間に印刷されて出来上がってしまうんですけどね…)
こんな長い工程が必要なので、全体の金額もそうですが、どの時点で決済してもらえるのかという問題もいつもつきまとっていました…
ま、もっともそういう金銭の問題以前に、アイデアがなかなか浮かばないことと、そのアイデアを具現化させるスキルとのバランスがいつも悩みのタネでした…
アイデアがわかないときは何時まで経っても、何も浮かばないことがあって、締め切りギリギリになって徹夜で仕上げるというのが、常態化していました。
それに連れてタバコの本数は増え続けてゆき、コーヒーもタバコと一緒に増え続け、味には関係なく常にそばにおいておかないと落ち着かなくなっていました…
遊びも仕事も…
締切に追われる日が続くと、いつもなにかに追いかけられている夢もよく見ました…。
でも、アイデアを考えているときって、行動的には何もしていない状態なんですよね…
ただジャズを聞いていたり、用もないのにフラフラ散歩したり…で、他の人から見るとただ暇をもてあましているようにしか見えないんですよね…
そのせいでもないのでしょうが、集まってくるビートルズエイジの若者たちは、草野球をやりましょうよ!とわたしにしきりにせがみます。
まだ子供のいなかった頃でしたので、じゃ~、ということで草野球チームを結成。
総勢12名ほどが集まりましたが、ちゃんとした野球経験があるのは私一人(一応高校時代は硬式野球部員)だけで、野球経験がなくともみんな口だけは一人前で、ガラガラうるさいので”サイドワインダース”(ガラガラヘビ)というチーム名をつけました。
この中には、わたしが21,2歳のとき、彼の家のクラウンのライトバンの後ろに布団を積んで九州を一周したK君や、仕事で翻訳などを頼んだことのあるウィリー君も含まれていて、ユニフォームもアパレル関係の会社に勤めている人が格安で作ってくれたので、すぐに試合をすることができました…。
さて、これで海釣りと野球と時々麻雀という遊びが揃いましたが、遊びはこれで終わりませんでした…
テニスコートが新設…
遊びと仕事で目一杯の感じで毎日を過ごしていたのですが、ある日マンションの敷地に接したところにテニスコートができました。
まるでマンションの敷地内のようで、マンションの真下という感じのところで、すぐにテニススクール生募集の看板がかかりました。
当時このマンションの地下駐車場の料金が2万5千円ほどでしたが、わたしにはこれが結構負担でした。
もっとも、東京で仕事している人は、「いや~、やっぱり横浜は安いね、東京はその倍以上するよ!」なんて言われていたものですが、どこか安い所…と常に思っていたので、すぐに思いついたのがテニススクールです。
確か、テニススクールの受講料が1ヶ月1万円と書いてあったのを思い出して、妻に受講したら車を止めさせてもらえるか聞きに行ってもらいました。
すると、できたばかりだったからでしょうか、即OKだというので、早速妻にスクールに入ってもらうことにしました。
売り言葉に買い言葉。
そこで、妻は生まれて初めてテニスラケットを握ることになったのですが、わたしが昼間仕事をしているところに帰ってきては、疲れた!疲れた!の連発です。
それで、つい言わなくとも良いことを言ってしまったんですよね、それも、わたしは一応高校時代は硬式野球部員だ!という意識があったものですから”あんなワンバンドの玉を打って、どこが疲れるの!”なんて言ってしまったんですね、そうしたら、帰ってくる言葉は決まってますよね…
”じゃ自分でやってみたら…!!”
という言葉で、妻に代わってわたしも生まれて初めてのラケットを握ることになりました…。
これが悪かった!というか、良かった!というか…、すっかりハマってしまいました。
これでまた遊びが一つ増えることとなりました。しかもこの遊びはかなり自分をのめり込ませるだけの魅力が満載でした…。
このテニスコートは2面しかないハードコートのテニスコートなのですが、ラバーを張った足の負担を軽減させたソフトタッチのコートでしたので、プレイし易いコートでした。
そのコートの一面はスクール用に、もう一面は会員用になっていて、スクールが終わればその面も会員に開放されていました。
それで、平日ここに通ってくる人達の職業はというと、一番多かったのが各航空会社のパイロット、それと、航空会社のCAの女性、後は医師の奥様達が殆どで、駐車場に停まっている車といえば殆どが高級外車で、わたしのようなボログルマを駐車させている人は皆無のように見えました。
それでも、わたしはスクールに入ってしばらくすると、すぐに上達しましたよ…、なんて書くと、運動神経がとか、以前に野球をやっていたから、などとと思うかもしれませんが、そうではないんです。
それは、立地条件です!
なぜって、みんな仲間を誘って複数人で来るわけではないので、テニス相手が欲しくなると、その度にわたしが引っ張り出されるので、週1回とか2回しか来ない人に比べると、テニスをやる回数が圧倒的に自分のほうが多かったというだけのことなんです。
さて、テニスもある程度人並みにできるようになると、友だちも増え、わたしと同じ異端者ともいえる人とも出会えました。
その異端者の一人が、ジョン・バーグさんとおっしゃるイギリス人の神父さんで、イギリス国教会会長という肩書を持った、山手の外人墓地の前にあるプロテスタントの教会の神父さんです。
それと、もう一人の方は、パイロットではありませんが、当時パンナム(パンアメリカ)に勤めていて、年中アメリカと日本をいったり来たりしていた、わたしと同年代のMさんと急激に仲良くなりました。
この3人はテニスの腕前が同じ程度ということだけでなく、気が合うというのか、ま、とにかく3人でよくダブルスのゲームをやったり、話し合ったリ、時々横浜駅近くのパブに行ったり、バーグさんの家(教会)でご馳走になったり、ピアノを聞かせていただいたりしました…。
と言っても、私は英語は全くだめなので、全てMさんの仲介で会話が成立していたんですけどね…
それで、何時だったかバーグさんにギリシャ料理の店に連れて行ってもらったときに、あの英語のアルファベットを逆さまにしたような、ロシア語の読み方を教わって、その店のロシア語で書かれた店名をポセイドンと読めたんですけど、今はみんな忘れちゃって、その店の名前だけしか覚えていないというのは情けないですね…。
さて、そのようなことで、テニスは主にウィークデイ、草野球は日曜日、海釣りと麻雀は暇な時…で、仕事はというと、夜中専門!
こんなんですから、タバコとコーヒーの量は増えるばかりだし、年中寝不足で、いつもなんだか眠くって、一日眠れるだけ眠ってみたいな…なんて思っていたこともある日々を過ごしていました…
麻雀の話…
こんなに疲れているんだから、何もいくら誘われても麻雀なんか行かなくてもいいのに、誘われるたびに行っていました…。
それは、若いときに測量の手伝いをしていた測量士の方が、今は従業員が2,3人いる測量会社の社長になっていて、最近麻雀を覚えたばかりで、点数数えをられないので点数を数えがてら、一緒にやってくれというお誘いなのです。
もちろん、だからと言って、断れないこともないのですが、それでも行くには行くだけの理由があったんです。
それは、簡単に小遣い稼ぎができるから…、なんです。
なにせその会社のメンバーはみんな揃って弱い!
オーバーな言い方をすれば、赤子の手をひねるようなもの?だから、かなり稼がせていただきました。(せこいね…)、それに相手は社長なので、お金のトリッパグレがなくて、安心してできるものですから、とっても良いお客さんだったんです…。
もっとも、彼らも点数が数えられるようになると、めっきりお誘いは減りましたけどね…
それから、この会社の人達も野球が好きで、会社の人達と友人たちを集めたチームがあって、我がサイドワインダースと試合をすることもありましたが、これもうちの方が強かったんですよ…。
夜中の電話にうめき声が…!?
仕事の話になりますが、わたしがいつも頼んでいる写植屋さんは、聾唖の方でしたが、お兄さんが歯医者さんで、自立できるようにと写植の技術を学ばせ、設備もそのお兄さんが全部備えてくれたもののようでした。
聾唖の方でしたが筆談を通じて気心が知れていたので、かなり無理を聞いてくれる人でした。
それで、その日も例によって締め切りギリギリなので、なんとか今日中に仕上げて、明日の朝一番で届けないと間に合わないので、大急ぎで打ってもらおうと思って頼みに行くと、その日は急に友人の不幸があって、どうしてもこれから行かないといけないので、今日はできません!というのです。
参りました!
これから打って夕方に仕上がったとしても、間に合うかどうかというのに、今日は打てないというのですから、もうガックリ!です。
他の写植やさんでこんな急ぎ仕事をやってくれるところはないし、諦めるほかありませんでした…。
やむなく、原稿だけはそこにおいて、写植がなければ手も足も出ないので、我が家に戻って諦めて寝ることにしました…
疲れていたので、すぐにぐっすり眠ったんだと思うのですが、深夜に突然電話が鳴り出しました。
深夜の電話ですから、とっさに親になにか?と思って受話器を取ってみると、受話器から聞こえてきたのは気味の悪い「う~」とか「あ~」という言葉ではない、うめき声だけです。
一瞬、背筋がゾッとしました! でも落ち着いて聞いているうちに、わかりました!
あの聾唖の写植やさんの声です!
急に嬉しくなって、相手に聞こえるのかどうかわかりませんが、大きな声で、「今行きます!」といって、すっ飛んでいくと、葬式から戻ってすぐに打ってくれたのでしょう、出来上がった写植を笑って、手渡してくれました。
嬉しかったですね…! メモ用紙に大きな字で、ありがとう!って書いて、大急ぎでUターンして、なんとか遅れはしましたが、その日中に間に合わせることができました…。感謝でした!
縁は異なもの…
こんなドタバタ生活が続いていましたが、あるとき草野球チームのウィリー君が急に、結婚するので結婚式に出てくれというです。
えっ?どこでやるの?と聞くと、外人墓地の前の教会だけどわかりますか?というので、バーグさんのところ…?と聞くと、ウィリーはびっくりして、なんでバーグさんを知ってるんですか…?と、お互いにびっくりです。
よく考えてみると彼はクリスチャンで、インターナショナルスクールもすぐ近くなので、神父さんを知っているのは当然で、わたしのほうが以外なんです。
で、わたしが下のテニスコートで知り合ったことを説明すると、ウィリーは子供の頃からテニスをやっていて、最近はやる機会がなかったので、これからは一緒にやりましょうということで、テニス仲間が一人増えることになりました。
さて、結婚式の当日、初めてバーグさんの神父姿を見たので、今も印象に残っているんですけど、肝心のウィリーと花嫁さんの姿って全然記憶に残ってないんです…(彼らに言ったら怒られるよね…)
式の終わり近くになって、バーグさんがわたしの脇を通るときに内ポケットに手を入れて、チラッとわたしに見せたものがありました。なんだろうと思って、横目で瞬間見てみると、馴染みになっていた横浜駅近くのパブのメンバーズカードでした、それで意味がわかりましたので、無言で親指を立てて笑ってうなずきました…。
その夜、Mさんをよんで3人でそのパブに行ったのはいうまでもありません。
ところで、このバーグさんは世界各国を回ってきて、日本に着任してからこの時点で10年ほどになるとおっしゃっていましたが、日本語こそ話せませんが、わたしより横浜のことに詳しいようでした…。
バーグさんがこのパブを気に入っているのは、イギリスのパブと同じような作りになっているからだそうなのですが、ここで3人は色々な話をしました。趣味の話から聖書やイギリスやその他の国のこと、Mさんはアメリカ文化に詳しかったので、アメリカでの話などを交えた話なので、私は大いに勉強になりました…。
それと、バーグさんにはその他にも色々お世話になっていて、バーグさんの手料理で、ミートパイやアボカド料理などをごちそうになったり、シーメンズクラブや市内の焼き鳥屋さんにまで連れて行ってもらったこともあるんです…
それと、バーグさんのピアノで『展覧会の絵』を演奏していただいたこともありましたが、その曲には「キエフの門」という部分がありますが、キエフというのは今のウクライナのキーウのことなんですよね、その頃に今のあのキーウの惨状など、誰も予想することなどできなかったのにね…
日本のテニス発祥の地
さて、ウィリーもテニスを始めることになって、一緒に打ってみると流石に子供の頃からやっていたのでしょう、野球より遥かにうまい。野球は付け焼き刃ですが、テニスはしばらくやっていなかったせいで、ミスが目立ちましたが、基礎がきちんとできている感じがして、わたしよりずっとうまいことがわかりました。
そのウィリーが、今度はうちの方のテニスコートでもやりましょうよ、というのでウィリー行きつけのテニスクラブに行くことにしました。
行ってみると、なんとそこは日本のテニス発祥の地の格式あるテニスクラブです。
ここはテニス仲間あこがれのニスクラブで、会員になるためには何年待ちなどということを聞いたことがあります。
ウィリーはお父さんの代からここのメンバーだったのでしょう、クラブハウスではみんなから坊や扱いされていました。
もっともテニスコートそのものは普通のクレーコート(土のコート)で、どうということもないのですが、クラブハウスなど、そこここに歴史を感じさせるものがありました…。
そんなことで、このコートやうちの方のコートを行き来して、しばらくウィリーとダブルスを組んで、ゲームを楽しんでいましたが、そのうちに横浜市の市民大会に出てみようということになり、初めて正式な試合に参加することにしました。
お互い大したことのない腕前ですから、1回戦はなんとか勝ちましたが、2回戦はかなりの腕の差の違いを見せつけられ、とても勝負になりませんでした…
突然の終わり…
こんな生活を続けているある時、突然このマンションもテニスコートも取り壊されるという情報が入るようになりました…。
取り壊しまでの期間はそう長くありませんでしたので、かなり焦りました。
その頃には娘も生まれ、幼稚園入るような歳になってもいましたので、余計に悩みました。
どこへ引っ越すか…、という問題もありますが、それよりも今の仕事をこのまま続けるかどうかのほうが大きな問題でした。
徹夜仕事でタバコやコーヒーづけの毎日の割に、収入はどうみても見合っているようには思えないだけでなく、このまま続けてステップアップして先に展望が開けるのかが一番の悩みでした…。
といっても、新しく何ができるのかを考えると余計に悩みが深くなるばかりでした。
そんな状態のときに、リトルジョンはすでにオープンしていましたので、リトルジョンを手伝いながら、お客さんも茂呂くん(オーナー)も帰った後、店を真っ暗にしてアイドルモーメントを流して、どうするか、どうするか…、という堂々巡りを繰り返し考えていました…
結論!!
結局、全てを断ち切ってゼロからやり直そう!という結論を下しました。
そのためには、このまま横浜にいたのでは思い切ったことはできない! 横浜から離れたところで新しい仕事を見つけて、今までのように仕事の業種などにこだわらず、生活優先でいこうと決めました…。
そう決めたので、仕事関係の人達には、これ以上仕事をすることができなくなった旨を伝え、K君以外には誰にも告げずに横浜を去ることにしました。
そうはいっても、横浜以外に何処かにあてがあるわけじゃないし、何をするかも決まっていないのですから、乱暴な話でした。
それでも色々考えた末、現在の埼玉県に居を決め、二人を呼び寄せ、職探しをしました。
職探しの間もさまざまな紆余曲折がありましたが、塗装屋さんの親方と出会うことができ、塗装の仕事に従事することができました。
塗装の仕事をして感じたのは、何と言っても塗り上がったときに、お客様が素直に喜んでくれることでした。
それは今まで味わったことのない喜びで、単純に嬉しかったです。
それに、何と言っても今までのような小難しい理屈や、知ったかぶりしたカタカナ語を使わなくても良くなったのが一番でした…
やっと禁煙に…
塗装の仕事にも慣れて、いつしか独立して自分の名前で仕事を請け負うようになりましたが、それでもまだ、タバコをやめようなどとは全く考えることはありませんでした。
そのころ娘はもう大学に通学していた頃で、妻と2人でしきりに車も部屋もタバコ臭い、汚れる!の苦情が多くなっていましたが、それでもまだやめる気になっていません…
タバコ以外のテニスや野球、麻雀などはとうの昔に縁が切れていましたが、タバコとコーヒーだけは横浜から引き継いだままでした。
実は横浜にいる時に、年下のリトルジョンの茂呂くんから『落合さん、今どき、ほんの少しの知性と良識があったら、タバコなんか吸う人はいませんよ!』と言われたことがあったのにね…
それがどうして禁煙する気になったのかというと、ある時、仕事がうまく行かなくなったときに、自分自身を顧みることがあったからです。
振り返ってみると、憧れてなったデザイナーの仕事も放り投げてしまったし、何もかもが中途半端で、きちんと最後まで成し遂げたものが、なに一つなかったな~、という思いが強くなっていました。
それで、なんでもいいから、なにか一つ成し遂げた!と言えるものをつくりたいと、強く思うようになりました…
それで、これから自分にできることってなにがあるかを考えてみました…。
その結果、決意したのが「禁煙」です!禁煙はたばこをやめるだけのことですから、なにも道具はいらないし、お金もかからないので、これに決めました。
禁煙の宣言!
そこで早速、家族に禁煙宣言して、持っているタバコをゴミ箱に捨てました。
いざ禁煙してみると、周囲からの雑音がかなりのもの、特に仕事仲間が休み時間に集まったときなどは、みんなにいびられることとなりました。
そんな中、ある左官屋さんは「落合さんは禁煙初めてか、俺なんかもう10回も禁煙してるぞ!」なんていう人もいましたよ…
禁煙して一番困ったのが、居酒屋などへ行ったときなどに手持ち無沙汰というか、手の置き場がなくて困りました…
ともあれ、ガムのお世話になりながら、現在の80歳に至るまで一本のタバコも吸うことなく過ごせたのですから、とりあえず禁煙だけは成し遂げたと言って良いのかな…なんて思っています。
それにしても80年も生きてきて、成し遂げられたのが”禁煙”だけというのは、なんとも情けない話ですが、それでも何もしなかったよりマシかな…なんて、自分を慰めています。
今現在、禁煙しようかな…なんて思っておられる方がいらっしゃったら、医者や薬に頼る必要はありませんよ!
“しようかな…”ではなく、禁煙する!と決めるだけです。禁煙すると決めて周囲に宣言してしまえば再び吸うことなどできるはずがありません!
禁煙の決め手は、やめる!と思うか思わないか…だけだと思っています。
というのが、禁煙に至るまでにこれほど長くかかって得た男の感想です。
もっとも私も80歳が終点ではありませんので、これから先も挑戦できる事がある限り、年齢を言い訳にしたりせず、頑張っていきたいな…と考えています。
最後まで、私事の長~い文章を読んでいただき、本当にありがとうございました。
なお、K君に関しては『少年ケニヤと横浜ドルヒン』を、塗装の親方に関しては『わたしの親方とのぶちゃんのお話』を御覧ください。