あなたはご自分の命の値段をご存知ですか…?

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人の命は地球より重い!?のですから、人の命に値段なんてつけられないと思うのですが、現実には交通事故などで亡くなられた場合には、その人の値踏みがなされることになります。

その人間の命に値段をつける値踏みの基となっているものって何なのでしょう…?

そこには「物」「人」との明確な区別がなされているのでしょうか…?

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逸失利益ってご存知ですか…?

逸失利益というのは、亡くなった方が将来得られたはずの収入をもとに算出される金額のことです。

この計算方法によると、年齢、性別、学歴、収入、障害の有無によって、人の値段が大きく変わってくることになります。

例えば、35歳の男性が事故で亡くなった場合、この人の年収が800万円で、奥さんと共稼ぎで子供2人を育てていたとすると、賠償金はおおよそ1億4000万円ぐらいになるそうです。

一方、同じ年齢の男性でも、年収が300万円で独身のBさんの場合だと、賠償金はおよそ5000万円程度だそうです。

以上は一般的な例ですが、実際に損害賠償金裁判で争われ、NHKでも放映された実例で検証してみます。

その例によると、11歳になる小学生の愛優香(あゆか)さんが、下校途中に暴走した重機に巻き込まれて亡くなられたそうです。

11歳でなくなった愛優香さんは、生まれたときから聴覚障害がありましたが、明るい性格で、運動会ではスピーチの大役を任されるなど、学校行事にも積極的な娘さんだったそうです。

その愛優香さんの損害賠償を巡る裁判が行われました。

一般的に損害賠償金の内訳は、精神的苦痛に対する慰謝料や葬儀費用などで構成されますが、その中でも「逸失利益」が高い割合を占めるそうです。

その裁判の中で愛優香さんのご両親は、愛優香さんの「逸失利益」を全労働者の平均額を基準に計算することを求めましたが、加害者側は、愛優香さんには障害があるとして全労働者の平均額ではなく、女性労働者の平均額、しかもその平均額の40%にとどまると主張したのです。

愛優香さんは女性だから、男女合わせた全労働者の平均額ではなく、女性労働者の平均額で計算すべきで、ましてや障害があるのだから、その平均額の40%ぐらいが妥当だろう…というのです。

この算出の基になっているのが先に述べた「逸失利益」という考え方によるもので、賠償額を決める大きな役割りを担っているのです。

先ほども述べたように「逸失利益」というのは、亡くなった方が、もしその後も生き続けていたとしたら、生涯幾らぐらいになるか?

といった考え方に基づいて賠償額を決めようとするものです。

この考え方というのは、人ではなく「物」に対する考え方と一緒だと思いませんか?

例えば、これはもう10年以上も使っていたものだし、この辺が少し壊れているので、〇〇円ぐらいが妥当でしょう。

一方、こちらは新品で上等な材質を使っているので、先程のものの3倍ぐらいの値段がつけられる…といっているのと何ら変わらないと思いませんか…?

こんなことで大切な人の命を値踏みされていることに、皆さんは納得されますか…?

人の値打ちって、こんなことで決められているのか…、という驚きでしょうか…?

法律で決まっているのだから仕方ないよ…ですか?

それとも、妥当だと考えていらっしゃるのでしょうか…?

逸失利益以外の方法で、算出する良い方法がない以上仕方がない…ですか?

人の命は誰も等しく尊いもの!ではなかったのでしょうか…

人の命は、人種や肌の色、男女、職業、年齢、収入、障害のあるなし…にかかわらず皆平等でなければならないはず!ではなかったのではなかったでしょうか。

それなのに、この逸失利益という考えはこの平等を真っ向から否定し、年齢、男女、職業、収入によって、人にわざわざ格差をつけようとするものです。

なぜこんな考えが罷り通っているのでしょう…?

それは、格差のあることが平等と考える人達がたくさんいるから…、ではないかと考えています。

どういうことかというと、例えば30代で開業したばかりの医師と、70代で無職のホームレスの老人とを並べて、この二人を比べたときに同等と言えるのか…!?

と考える人たちのことです。

確かに、70代の無職のホームレスの老人と、30代の開業医では比較にならないほどの収入の差があるでしょう。

だから、その人達が亡くなったときには、開業医には開業医にふさわしい金額を、ホームレスの老人には無職で収入がないのですから、ずっと低い金額を…、という差をつけることで丁度良いバランスがとれる、つまり平等になるという考えです。

本当にそうでしょうか…?

これが正しい考え方なのでしょうか…?

人の命の価値というのは、そんな打算でしか評価されないのでしょうか…?

それに、この逸失利益という考え方には”もし”という言葉が必須です。

もし、この開業医が生きていてずっと開業医として利益を上げ続けたとしたら、生涯おおよそこのぐらいの収入になるはず…といった計算によるものです。

”もし”という言葉を使ってよければ、わたしは世界を制服できる…!といった人がいますが、その通りで、”もし”という仮定の条件を基にその人の値踏みをするなど、ありえない話です。

このホームレスの老人が将来10数億円の宝くじに絶対当たらない!と、誰が断言できるでしょう…!

逆に、この開業医が絶対に成功して、沢山の利益があげられるなどと誰が保証できるのでしょう…!

こんな不確実な数字を基に計算して、その人の値踏みをするなどというのは、人間の尊厳をないがしろにする以外の何ものでもない!とわたしには思えます。

こんなわざわざ人間に格差をつけて、値踏みをするような考えは絶対にあってはならないことのようにも思うのですが、皆さんはいかがでしょうか…

でも、専門家と言われる法律家の方たちの間では、なんの疑問もないかのように、この逸失利益に基づいて、金額が算出されているのです。

愛優香さんは、被害者であって加害者ではありません!!

もう一度先程の愛優香さんの裁判に戻ってみます。

加害者側の主張する、女性平均の40%という低い水準に、ご両親は「娘の命の価値は他の子より劣るというのか、これでは2度殺されたようなもの…!」と大きなショックを受けておられました。

しかも、聴覚障害があってもそれ以上の価値があるというのなら、学校での成績や活動などの証拠となるものを提出するよう、ご両親に求めているのです…。

これでは、誰が被害者なのかわかりません!

でも、これが現実なのです。

そして、この裁判に対して沢山の意見や、同情、逸失利益に対する疑問などの他、署名運動も起きた一方、このご両親に対して、「偉そうなこと言っても、結局は金がほしいんだろ!!」といった誹謗中傷も受けたそうです。

被害者である愛優香さんのご両親が、なんでご自分で証拠集めに奔走をしたり、いわれのない誹謗中傷を受けなければならないのでしょう…?

こうした裁判で法律の専門家たちが下した結論によって、愛優香さんのご両親が得られた金額は、294万7千円です!

一般女性の平均の60%程度の金額です。

これが、法律の専門家たちが下した愛優香さんの命の価値に対する値段です。

人の「死」をお金に換算しなければならない現実…。

人が死ぬ、ということはどういうことでしょう…?

人は死んでしまったら、ただの宇宙の塵、元素に還るだけです。

あの世も次の世もありませんし、冥土などと呼ばれるところもなければ、天国もありません。

もしそうしたところがあるのなら、人の死はそれほど悲しいものではありません。

だって、時間が経てば自分もそこに行って会うことができるのですから…

そんな事ができないからこそ、人の死は悲しいし、悔しいし、残念だし、辛いのです。

だからこそ尊いのです。

その故人への想いの強さが、故人を惜しんで天国を作ったり、生まれ変わって欲しいという願望が次の世を作り出しているに過ぎません。

死んでしまった人をもとに戻すことは、誰にも、どんな方法でも、できないのです。

そのために、人を死に追いやった報いは小さなものであって良いはずがありません。

それが、故意であろうと過失であろうと、死んでしまった人にとっては、死んだという事実に何ら変わりはないからです。

そこで、もう一度、愛優香さんの裁判を振り返ってみます。 

この裁判で争われていたのはひたすら「逸失利益」のことばかりです。

最初に書いたように愛優香さんは暴走した重機に巻き込まれて亡くなった被害者なのです。

このことのほうが「逸失利益」などより遥かに重大なはず!

だとは思いませんか…?

この運転手は、無謀運転という重大な過失を犯して、愛優香さんを死に追いやったのです。

そのことの重大さを論じることこそが裁判の主でなければならないのに、被害者が身障者であるとか、年齢とか性別など、事件とはまったく関係のないことばかりが主として論じられているのです。

これでは本末転倒、主客転倒でありませんか…?!

損害賠償金額というのは、亡くなった愛優香さんが受け取る金額ではありません。

大切な娘さん! かけがえのない娘さんを、運転手の無謀運転でなくされたご両親が受け取る金額です。

このご両親はその金額が欲しくて法廷闘争をなさったわけではないはずです。

娘さんを返してほしいのです! けれどそれが叶わぬ以上、娘さんと同等の価値の金額で償ってほしかったのではないでしょうか…?

その同等の価値が、294万7千円だというのです!!

これが愛優香さんの価値と同等の値段ですか?

この結論にあなたは納得できますか…?

加害者の弁護士は、これだけ低い金額に抑えたのですから、これを自慢したり、誇りに思えるのでしょうか…?

法律の専門家の方々は、「公平」、「公正」、「平等」、「正義」、「愛情」という言葉をどう理解されているのでしょう…

ネットで、逸失利益を検索してみてください、沢山の弁護士事務所が逸失利益について詳しい解説をし、当事務所に頼めば多くの賠償金が取れ、加害者ならできるだけ少ない金額で抑えられるかを、何やら上手な言葉で宣伝しています。

その人達はすべて「逸失利益」という考え方に多少の疑問を投げつつも、人間の評価は人によってまちまちなので、人には差があるのが当然だという考えから出ていないように、わたしには感じられています。

人の命の値段は「逸失利益」でしか得られないのでしょうか…?

逸失利益以外の方法を考えてみました…。

人の命に値段をつけなければならないならば、何と言っても人の命は人種や肌の色、職業や年齢、性別、収入などによって差があってはならない、人の命は平等という大前提に立って考えるべきの筈です。

人の命は誰も平等という立場に立って、具体的にはどうしたら良いかを考えてみました。

人の命の価値は皆同じなのですから、まず、人の命に一定の金額を設定します。

その金額は、わたしはこれまでの裁判で得られた最高金額を充てるのが一番良い方法ではないかなと思っているのですが、この金額に関しては、国民全体が妥当な金額を考え、その合意のもとに一定の金額を決めれば良いと思っています。

ただ、ここでは仮に1億円を人の死の基本的な金額とします。

この基本的な金額の増減は、過失によるものならば、その過失の状況、例えば交通事故ならどんな状況でその事故が起きたのか、横断歩道を歩いている歩行者を脇見運転で死亡させてしまった…などというのであれば、この基本金額の1億円にプラスアルファを加えた額の賠償金を支払わなければならないでしょうし、逆に歩行者が真夜中に酔っ払って車道で寝ていて轢かれてしまった…などという場合なら、基本金額の1億円から過失割合に沿って減額した賠償金を支払うといった方法です。

この増減する賠償金額を決定するのが、裁判所、法律の専門家たちの役割です。

過失割合を公正に判断して、被害者に相当の賠償金を支払っていただきたいと考えています。

これは要するに、過失であろうと故意であろうと、人の命を奪った者は基本的に1億円という贖罪(しょくざい)を背負ってもらわなければならないという考えです。

ですから、この基本金額を増減する基準は、ひたすら死にいたらしめた状況によるもので、被害者の人種や肌の色、職業、収入、年齢、性別などが考慮される事があってはなりません。

被害者にそんなことを問われる理由などあるはずがないからです。

この方法の問題点は何でしょう…

おそらく、そんなことをしたら保険料が高くなって大変だよとか、保険会社が受けてくれるかどうか…などという声が上がりそうな気がします。

けれどそのことを先に考えてから人の命の値段を決めるのは、本末転倒だと思います。

人の命を奪ったのですから、何としてもその生命に脾摘(ひってき)する対価を支払わなければならないのは当然のことではないでしょうか…!

その後にそれを実現させるためにはどうするかを論ずるべきだと思います。

悪法も法なり…! 悪法は法にあらず…!

あなたはどちらを支持しますか?

悪法も法なりという言葉は、法の遵守という意味でよく使われますが、例えばその昔の漫画で幕末の勤王の志士たちが、”幕府の犬たちめ!”などという言葉を吐いていたことを覚えていませんか…?(若い人たちにこの例え話は無理がありすぎ…かな…)

要するに、ここでいう幕府の犬というのは、旧来の幕府の法を守る側で「悪法も法なり」を守ろうとする人たちです。

これに対してそれら旧来の幕府の悪法を打ち倒して新政権を作ろうとしているのが、「悪法は法にあらず」と考える新たな勢力者たちです。

この問題というのは、2択でどちらが正しいとか、正しくないと言った単純な問題ではないかも知れませんが、誰が考えても悪法と思えるもの、例えば独裁者が勝手に決めた法律に従うとしたら、まさに今言った権力者の犬でしかありません。

しかし、幸い日本は民主国家であり法治国家です。

ですからそのため、法律を破れば当然罰せられますが、その法律が時流に合わなかったり、納得できない法律であれば、その理由を主張することで、是正したり変えたりすることはできるはずです。

そのようにして変わっていった法律はたくさんあるのではないでしょうか…。

昔は、斬首、さらし首などということが公然と行われていたのに、現在ではそんな法律は存在しません。

そんな古い例を持ち出さなくとも、つい最近までなかった「危険運転致死傷罪」が新たに施行されたことでもわかるように、法律はその時代、時代に合わせて変化して行く必要がありますし、変わってきています。

ただ、残念ながらその変化は常に後追いで、誰かの犠牲なしに変わることがないことです。

危険運転致死傷罪もご存知のように、あおり運転が多発し、犠牲者が出てマスコミが沢山取り上げたことによって制定されたものです。

後追いでも変えることが肝心なことに代わりありません。

この「逸失利益」という考え方も早く変えなければ、愛優香さんのご両親と同じ目に合う人が増え続けて行ってしまいます。

わたしには愛優香さんのご両親も「逸失利益」という考え方のある意味犠牲者では…と思えてならないのです…。

声を出さないと何も変わりません…!!

この「逸失利益」という考え方はおかしいという声を挙げない限り、法律の専門家と言われる人たちが、自発的に変えることは考えられません…。

この問題は「裸の王様」と同じで、誰かがおかしいと声を発しない限り変われないのです。

でも、おかしいと考える人が増えて、その声が高まれば見直す日が必ず来るとも思っています。

今は他人事でも、いつかはご自分の身に降りかからないとは言い切れない問題ではないでしょうか…

是非この「逸失利益」という考えをお調べになって、おかしいと思ったら、何らかの方法で声を上げていただきたい…!と願っています。

そしていつか、昔は「逸失利益」という考えで賠償金が左右されていた時代があったんだよ…と言われる日が来ることを信じて、この文章をしめたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございます

これからも自分の感じたことを、歯に衣を着せずに発信して行きたいと考えておりますので、お暇なときには当ブログを覗いていただけると嬉しいです…。

ありがとうございました。

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