宗教と政治の話をするのには、それなりの勇気と覚悟をしないといけないようですが、あえて自分の宗教観を披瀝しようと思ったのは、イスラエルとパレスチナ(ガザ地区)や、ウクライナとロシアの状況を見ていると、改めて宗教って何なのかな…と思わざるをえなかったからです。
神が先か、人間が先か…!?
皆さんは「神様」って、実在するとお考えですか?
実在する神様って、どんな神様なのでしょう…?
多分、この実在する神様を見た!という人は皆無だと思うのですが、それでも実在する!と主張する根拠ってなんなのかな…?って、思うことがよくあります。
ある人は、神様っていうのはあなたが考えるような「形」があって、我々の目に見えるようなものではないけれど、存在するんですよ…!
といった、わかったようなわからないことを、したり顔で主張する人がいます。
本当にそうなのでしょうか…?
その実在する神様が、この宇宙全ての想像主なのでしょうか…?
それが本当なら、わたしたちが知っているビッグバン以前に神は存在していて、この宇宙の全て、地球も微生物も神様が造ったことになりますが、なんのために創ろうと考えたのでしょう…?
ただの気まぐれでこの宇宙を造ったのでしょうか…?
こうした質問に対して、神様を信じる人は神様の考えていることを、我々人間が計り知ることなどできない!と主張します。
これでは何時まで経っても話が前に進みません。
宗教というのは、そうした理屈ではなく、信じるか信じないかですよ!
というのが結論で、そこには合理的な説明や話し合いは存在しないんですよね…
ところで、神様を意識するのは人間だけだとは思いませんか…?
どんなに賢い動物でも神様を意識することはありません…!
同じ神様が造ったというのに、それはなぜなのでしょう?
それは、動植物には思考力が存在しないからではないでしょうか…?
思考力のあるものにしか、神は存在しません!
その思考力こそが神を作ったのではないでしょうか…
つまり、神が人間を作ったのではなく、人間の思考力こそが神を作り上げたように思うのですが…
だからこそ、世界中に様々な神が存在し、違う宗教が乱立しているのでは、と思うのですが…
日本の神様って、どんな神様…!?
ところで、日本の神様ってどんな神様なのかを考えたことがあるでしょうか…
神棚を設けているご家庭も少なくないので、八百万の神とか、天照大御神の名を上げる方がいらっしゃるかもしれません…
勿論、そうした神様が日本古来の神様なのですが、その神様たちを造った(産んだ)神様がいることをご存知でしょうか…。
日本の神様を現在でも神様たらしめているのは、日本に初めて成立した大和朝廷時代(7世紀頃)に書かれた「古事記」や「日本書紀」(2つ合わせて記紀と言うそうです。)に書かれた神話が基になっていることは、どなたもご存知だと思います…。
その記紀には神様が神様を産み、そのまた神様が神様を産み…という系譜の先に天皇家があり、天皇家にたどり着いた後は、その神様の血を受け継いだ天皇家の系譜が描かれています。
その記紀によれば最初の神様について、次のように書かれています。
はじめ天も地もなく混沌としたドロドロの状態の中、突然神様が登場します。
その神様は「アメノミナカヌシ」「カミムスビノカミ」「タカミムスビノカミ」という3体の神様で、この3体の神様を”造化3神”というのだそうですが、ここに書かれているように、この神様が現れたときには、すでにドロドロの宇宙が神様より先に存在していたことがわかります。
そしてその後、形のない神が現れた後、男女一対の神々が登場するようになります。
ここで面白いのは、日本の神様は性別を持っていて、その男女の神様が交わって様々なものを産み出したことになっていて、日本以外の神様のように「創造」する神様ではないのです。
そのようにして様々な神々が産み出されていく中、よくご存知のイザナギ、イザナミという一対の神が登場します。
この男女の神様が交わることで、日本最初の国土「淡路島」をつくり、その後も次々と様々な島々を作ったり、神様も産んでゆきますが、その最中にイザナミは火の神を産む際に火傷を負って死んでしまいます。
死んで黄泉の国に行ってしまったイザナミを、イザナギは連れ戻そうと黄泉の国に追って行きますが、イザナミとの約束を破ったことで、イザナギは黄泉の国から、命からがら逃げ帰ることになります。
その黄泉の国のケガレを洗い流すために、左目を洗ったときに産まれたのが「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」で、右目を洗ったときに産まれたのが「月読命(ツクヨミノミコト)」、そして鼻を洗ったときに産まれたのが「素戔嗚尊(スサノウノミコト)」だというのです。
さて、この話をどう受け止めたら良いのでしょう…??!
この他にも、ここに書くのもはばかられそうな、例えば大便から〇◯という神、嘔吐した汚物からは〇〇という神、小便からは〇〇という神が産まれた…などとも書かれています。
こうした話を、バカバカしい作り話!とか、ただの神話だからデタラメだよ!と、言い切れますか…!?
もし、この話を、信じられないただの作り話だとしたら、天皇陛下の存在はどうなるのでしょう…????
天皇陛下が特別なのは、天照大御神という神様の血を受け継いでいるからこそ、特別な人(神)なのであって、もしそうでなければ、ただ長いこと続いてきた家柄の人でしかなくなってしまいます。
太平洋戦争以前は誰もがこの神話を受け入れて、天皇陛下は生きている神様として敬っていたのです。
そしてこの神話を基にした、神話上のさまざまな神様を祀った神社が日本各地にあるのはご存知のとおりです。
そして、その神社には同じ神社でも、神宮とか大社とかは格上の神社なんですよ!などと格付けまでして現在まで延々と引き継がれてきているのです。
さきほどのような神話は信じられないけれど、神社の神様に祈ったり、願い事はする…って、なんだか不思議な気がするのはわたしだけなのでしょうかね…
世界の宗教
さて、日本の神様はこれくらいにして、世界の神様に目を向けてみようと思います。
世界にはさまざまな宗教があるのはご存知のとおりです。
その中でも、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教を世界の5大宗教と言うのだそうですが、同じキリスト教でもカソリックやプロテスタントといった宗派に分かれていたり、イスラム教もスーシ派だとかフーシ派だとかその他なんとか派に別れていたり、また仏教においてもかなり多くの宗派に分かれているのはみなさんんもご存知のとおりです。
この5大宗教以外にももっと小さな宗教を加えたら、世界中には数え切れないほどの宗教が存在しているのではないでしょうか…。
それらの宗教全てに神様がいるんですよね…
勿論一神教として、神様一人だけを信じている国・地域もあれば、ヒンドゥー教や日本の神道のように多神教の国や地域もあって、日本には日本の神様が、中東には中東の神様が、インドにはインドの神様が、欧米には欧米の神様が存在することになります…。
面白いですね、神様にも受け持つ縄張りがあるんでしょうかね…
それが”面白い”で済むと良いのですが、どの宗教も自分の宗教が正しく、他の宗教は”悪者”扱いです。
このことが宗教の最大の問題点ではないのか!?と私は考えています。
わたしの記憶が正しければ、確かインドは昔パキスタンやバングラデシュを含めた一つの国だったと思うのですが、ヒンドゥー教の人が80数%を占める地域がインド、イスラム教徒が90数%を占める人達がいる地域がパキスタンやバングラデシュに別れ、別々の国になってしまったと記憶しています。
そのため、インドとパキスタンの間では何度か印パ戦争を引き起こしています。
もし、みんなが同じ宗教であったら、こんなことは起きないのにな…と思ったりすることがあります。
神様は何をしてくれるの…!?
どの宗教であれ、その宗教に加わっている人達は、実在する神を信じる人達の集まりです。
最初に書きましたが、どんな宗教の誰であれ、実在する神に出会ったとか、見たという人は皆無だと思うのですが、神の声を聞いた…!とか、見た…!と主張する人もいる事も知っています…。
しかしその言葉を信じることは、実在の神を信じることよりも困難です。
その証拠に、現実の世界をよく見て頂きたいのです。
イスラエルとパレスチナ(ガザ地区)や、ロシアとウクライナの紛争などで、勝手な主義主張のもとになんの関係もない人たちが多大な被害を受けています。
その被害にあっている人達もみんな何らかの宗教に属していて、それぞれの神に必死で救いを求め、平和を祈っています。
こうした願い、祈りが、どこかで聞き入れられたことがあったでしょうか…!?
被害にあっている方たちだけでなく、日本の神社にお参りに行った方の中にも、その他の各国の人たちも、それぞれの神に平和を願い、祈った人が少なくないのではないでしょうか…
その祈りは聞き入れられたのでしょうか…!?
どこにもその形跡をみつけることはできません。
人間が起こしたことは、人間が解決する以外に方法がないことを、如実に示しているように見えます。
それでも神に祈られずにいられない心って、何なのでしょう…
原因と結果
このような事実があっても、宗教を信じている人によっては、そうした事柄に目をつぶり、拝んだらいいことがあったよ…とか、祈ったら病気が治った…などの話をして、自分の信じている宗教がいかに霊験あらたかであるかのごとく主張する人達もいたりします。
こういう人達の特徴は、原因と結果が全てで、その間のプロセスを考えようとはしません。
原因と結果だけなら、飴玉を舐めたら急に頭痛が治ってしまうことだってあり得ますが、その飴玉は神様なのでしょうか…???
なぜ治ったのかを考えること!それが科学です。
その科学する心を失ってしまっては、それこそ神様からいただいた思考力を自ら捨ててしまうことにほかなりません。
それでもなお、あのね、科学が全てじゃないんだよ!科学じゃ割り切れないこともあるんだよ!!!
と主張する人も見かけます…。
このようなことを主張する人達は、死後の世界に言及する人も少なくありません…。
死後の世界とは何でしょう…!?
死んでしまったら、人間も動物もみんな宇宙の塵に帰るだけです。
それ以外何もありません…!
宇宙の塵やガスが集まって恒星や惑星が産まれ、その惑星からわたしたちが産まれたのですから、死んだら、その塵やガスに戻るだけです。
死んだ後の次の世などは存在しません。
だからこそ、この世で生きている、この一生が大切なのであって、死んでから高額な戒名を買ってもらって、どんな意味があるというのでしょう…!!
確かにこの世の森羅万象すべてを、現在の科学が解明できているわけではありません。
だからといってそれらを解明するのに、科学以外どんな手法があるというのでしょう…?
未だに科学で解決、証明のできていないものはたくさんありますが、それを探る行為が止まっているわけではありません。
今、わたしたちは当たり前のように電気を使い、電気なしの生活など考えられませんが、その電気のことがわかったのは、わずか数百年前のことです。
”なぜ”なのかを追求する旅はずっとずっと続いている旅の途中です。
その”なぜ”という疑問を持つことこそが人間と、動植物の差ではないでしょうか…!?
”なぜ”という疑問を抱かずに、わからないこと、不思議なことを全て神様の為せるわざと決めつけるのは、あまりにも短絡的で思慮深い人の結論とは思えません…!!
わたしの妻はエホバの証人です。
ところで、わたしの妻はエホバの証人という宗教団体に加入しています。
エホバの証人という言葉を耳にした方も少なからずいらっしゃるのでは…、と思いますが、時折り輸血を拒否している団体とか、2世信者が信仰を強制された…などの報道があったりして、マイナスイメージを持っていらっしゃる方の方が多いのかもしれません…
まずはエホバの証人という組織が何なのかがわからないと、これから先の話が全くわからないですよね…
そこでわたしの知る限りの範囲で、説明してみようと思います。
エホバの証人というのは、”キリスト教のバイブル”聖書を丸々信じている人達の団体ということが言えます。
これではまだわかりませんよね、通常?のキリスト教(カソリックであれプロテスタントであれ)の信者は聖書を学んではいますが、聖書に書かれていることを丸々信じているわけではありません…!
どういうことかと言うと、例えば「ノアの箱舟」や映画十戎でおなじみの「出エジプト記」に描かれている海が割れる部分などは、真実の話ではなく、伝説?または比喩的な出来事と捉えているのに反して、エホバの証人の人達はそれらも含めて全てが真実!と信じ、聖書通りに生きようとしている人達だと理解しています。
そのエホバの証人の「エホバ」というのは、実在すると信じている神の名前です。
以上がわたしの妻やその他のエホバの証人の人達から聞いて知り得たエホバの証人に対する認識です。
妻を含めたエホバの証人の人達は、今言ったように丸々実在の神を信じている人達ですから、わたしのような無神論者とでは、根っこのところで相容れない部分があるのは言うまでもありません。
だからといって、いつもいがみ合っているわけではなく、妻以外のエホバの証人の方々とも親しくお付き合いをさせていただいています…。
妻がエホバの証人になるきっかけを作ったのは自分…?!
わたしがまだエホバの証人という存在も知らずに、横浜から埼玉に移ってきたばかりのある日、わたしが家の前で洗車をしていると、何やら玄関先で妻と同じような年代の女性が立ち話をしているのが見えたので、そんなところで立ち話をしてないで中に入ってもらったら…
といった、この一言が妻をエホバの証人に変える日になりました。
この頃は娘もまだ幼稚園生だったので、エホバの証人の集会に妻と連れだってよく出かけていましたが、小学校、中学と進み、物心がつくと、いつしか離れていきました…
わたしも、妻がエホバの証人になりたての頃は、妻以外のエホバの証人の方々から、いろいろ聖書に関する話を聞かせていただく機会が多かったのですが、わたしには到底受け入れられないことが多く、何時の頃からか聖書の話をすることもなくなりました…。
ただ、このことがきっかけで私自身は宗教とはなんだろう?とか、神様とはなんだろう?とか、自分が生きているということは…、等々を考えるようになりました…。
ところで、エホバの証人と言うと”輸血拒否”が最大の問題として取り上げられることが多いように思いますが、私自身は医師ではありませんので、輸血無しで手術が可能なのか否かの判断はできませんが、わたしの妻は数年前に、手術を必要とする病にかかり、近くの病院に問い合わせたところ、輸血拒否の患者は受け付けられないとのことで、エホバの証人の方が利用しているという千葉の病院で手術を受けることになり、輸血無しで手術に成功しました。
もちろんこの一件だけで結論を出すつもりはありませんが、輸血を拒否するかどうかは、人生の最後に延命措置を望むか拒否するか…という選択に似ていて、その人自身の信条によって決定することのように自分自身は受け取っています…。
エホバの証人についてわたしが認識しているのはこのくらいですが、エホバの証人であろうと、仏教徒であろうと、イスラム教であろうと、神道であろうと、わたしにとってはどれも同じ宗教で、それを各自がそれぞれに、自分のところこそ…!!!
と、主張しているに過ぎないように感じています。
ゆる~い信仰と宗教
10年近く前、わたしの仕事をかなりの期間手伝ってくれていたイラン人のS君がいました。
彼は日本人の女性と結婚していて、10年以上日本に住んでいましたので、日本語の読み書きはできませんが、会話だけなら日本人と変わるところはありません。
ある時、その彼がイランに一時帰国するというので、成田空港までわたしが車で送ることにしました。
その道々、S君はイスラム教だよな…などと何気なく話しかけたことから、日本の宗教はなんですか?と聞き返されたので、わたしは次のような話をしました…。
日本の一番古い宗教は神道と言って、S君も正月なんかに奥さんとに行ったことがあるだろう…、初詣をする神社のことだよ!というと、彼はわかるわかるとうなずいていました。
それから、その後に中国から仏教が伝わってきて、仏教が広まったんだけど、お葬式なんかやるところで、お坊さんのいるところだけどわかる?と聞くと、それもわかります!とうなずいていました。
次いで江戸時代頃になると、西洋からキリスト教が入って来て、一部の人はキリスト教になった人もいて、日本には大きく分けると、この3つの宗教があるんだよ…。
というと、彼は大きくうなずいて納得したようでしたので、その後も話を続けました。
例えばある夫婦がいて、その夫婦に子供ができるだろ、そしたら最初にお宮参りと言って、神社に行ったり、ある年齢になると七五三といって、また神社に行ったりするんだけど、その後、その子が成長して結婚するときに、その神社でみんなが神殿結婚をするわけでもないんだよ。
もちろんそうする人もいるけれど、キリスト教の協会で結婚式を上げる人もいるんだよ。
だからって、その人達が結婚式を上げたその宗教を信じているか…、というと、それも、そうでもないんだ…
だから、教会でイエス・キリストの前で誓いを立てた人も、神前で神様の前で誓いを立てた人も、ほとんどの人が、お盆(仏教行事)もやるし、各地のお祭り(神道の行事)にも参加するし、クリスマス(キリスト教の行事)もやるんだよ…
そしてね、最後に死んだときは、みんな仏教のお寺でお葬式をやるんだよ…!
という話をすると、彼は腹を抱えて大笑いしました…。
当たり前ですよね…!
一つの宗教を信じている人が、違う宗教の行事に参加することはほとんど考えにくいし、ましてや改宗するには、それなりの覚悟というか、迷いや悩みが生じるものだと思うのですが、日本の人の多くがこうした宗教にこだわりを持つ人は少ないように感じています。
だから、そうしたことを”いい加減だな~”と思ったり、物事をはっきりさせずに曖昧なままに済ませる態度を、わたしは若いうちはあまり好きではありませんでした…。
けれど今になると、そのゆるさ!ゆる~い信仰、ゆる~い宗教こそが、争いのない社会を作っているのかもしれない…と思うようになりました。
日本で、〇〇という宗教だからといって、他の宗教を攻撃したり、排斥するようなことはあまり見聞きすることがないからです。
たまに、どこかの葬式場で、今坊さんから聞いてきたばかりのような話を四九日というのはね…、とか、神社をお参りするときは二礼二拍手一礼しなければ…のような知ったかぶりをする人はいても、その本質を合理的に説明する、いかにもその宗教の信者さんなんだな…!と思わせる人にお目にかかったことがありません…。
わたしが知る限り、殆どが中途半端なウワベのカタチだけを語る人が如何に多いことか…
それに、仏教のお寺の坊さんも、仏教本来の”人の道を説く”という、肝心の”人の幸せのため”の布教活動をしている坊さんを見聞きしたことがありません…!
お寺はすっかり葬儀のための施設化しているのが現状です。
ところで、日本では宗教と政治が結びつくことを禁じています。
そのことから、ある野党の議員が、政府の要人が靖国神社に参拝するのは、政教分離に反するのでは…?という質問に対して、政府の見解は、神社には、仏教やキリスト教のような経典がないので宗教ではないのだそうです…!!
そのくせ、よっぽど小さな神社でもない限り、全ての神社は宗教法人なのですが、そのことに矛盾を感じる人も稀で、あの神社は縁結びの御利益がある…とか、あそこの神社はパワースポットとして有名…などといった、およそ信仰心とは無縁な観光名所化しているのが神社の現状です…。
ゆるい信仰・宗教で、戦うことは無理…!?
太平洋戦争が終わってからおおよそ80年近く、日本は平和を維持してきました。
その平和が維持できてきたのは、このいい加減さにこそあるのでは…と、考えるようになりました。
もし、日本がどこかの国と戦わなければならなくなったときは、このいい加減なままでは戦えません!
国を一つにまとめなければならないからです。
そうなれば、愛国心という名のもとに宗教も集約され、愛国心に寄与する宗教だけが尊重され、それ以外の宗教は排除されてしまう…!のでは、と感じています。
こんなことを考えるようになったのは、昨今の世界情勢の動きをみていると、何かキナ臭い感じを受けるからです。
そのようなことが起きないように神に願うことよりも、人間が叡智を絞ることこそが肝心で、その努力なしに平和を維持することは困難ではないでしょうか…!!
一つの宗教が権力者と結び着くことの恐ろしさは、歴史が証明しています。
現在の、この”いい加減”さが保たれている間だけは、日本は平和でいられるのだろうな…と考えています。
我々は再び”神国日本”に逆戻りしないように、常に注意を払っていないと、なんだかいつの間にか、”愛国者”だとか、”非国民”なんていうレッテルを貼られかねません…
こんなことを、TVのニュース番組などを見ているとついつい感じて、自分の考える宗教観を書く気になりました。
もちろん、それが単なる年寄の取り越し苦労であったらいいな…とは思っているのですが…
わたしの勝手な持論を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
日本人のルーツや、古代史などにも多少でも興味をお持ちの方は、以前にアップした「ヤマトタケルとスサノウと神社と…」や、「聞きかじりの邪馬台国と卑弥呼」なども覗いていただけたら嬉しいです。