悪ガキ3人組(後編)

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さて高校生活が終わりに近づいても、
3人の行動に大きな変化はありませんでしたが

ある日のこと、
誰から聞いたのか自分たちの血が売れるということを知りました。

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売血…!?

今、この言葉を聞くと
ゾッとする方も少なくないのではないでしょうか…

東京の「山谷」や大阪の「西成」地区に行ったことはありませんが、
多分そうした地区と同じようなイメージのあるのが
ヨコハマの「寿町」です。

その寿町内であったか、すぐ近くであったのか…
記憶が定かではありませんが、
そこに採血所(正式名称は知りません)があって、
窓口から腕を差し出すと、採血をしてくれてその後料金を払ってくれる
というものでした。

その頃、この売血制度には大きな問題があることは
われわれも知ってはいました。

「血」を売って生活している人もいて、栄養分の少ない薄い血や
病気を持った人の血も採血していたようで、
「血」の質が社会問題になり始めた頃だったと思います。

それでもわれわれは、自分たちのような血の気の多いのが
少しは血を抜いたほうがいいだろう…

ぐらいの単純な気持ちで採血してもらい、一人確か3000円ほど
(だったと思いますが)を受け取って、遊興費に使ったのは
言うまでもありません。

ちなみにこの頃の高卒の初任給が1万2~3000円程度で、
パチンコ一台を打ち止めにすると3000円ほどであったような気がします。

今思うと、この注射でよく病気も貰わずに運がよかった…

と思うばかりです。

なんとか社会人に…

そんなこんながあっても、3人はなんとか社会人になり

田辺は地方公務員に、山鹿は某企業の寮に入寮、わたしは

ある測量士の手伝いをしていました。

社会人になったら、給料を持ち寄ってどこかに行こうという約束をして
それぞれの道に進んで行きました。

その年の盆休み

わたしはその頃測量士の手伝いで、仙台に行っていて

測量士が仕事を請け負っている親会社の寮に寝泊まりさせてもらっていました。

そこで、仙台の夏といえば七夕まつりが有名なので

3人で七夕まつりを見物してから、翌日松島まで足を伸ばして

海水浴…という計画を立てて二人に告げると、即OK!

そこで、寮の管理人のおばちゃんに1日だけ友達も一緒に泊めてもらう
了承を得られたので、具体的な旅行日を決定して二人に報告。
これも即決定!

下駄履きの仙台旅行

旅行当日、横浜駅に集合した3人の出で立ちは

下駄履きにタオルで海水パンツを巻いただけ…という

とても仙台まで七夕見物に行くとは思われない格好。

その格好で上野に着くと、誰が言い出したか、玉突きでもやって
遊んでからタクシーで行こうよ…!

というので、駅前に並んでいるタクシーの運転手さんに仙台まで行くのは
可能かどうか訪ねたところ、軽く「いいよ」という返事なので
玉突きに興じて夕方まで遊んでいましたが、さすがに日もくれてきたので
駅前のタクシー乗り場で、再度仙台まで行ってくれるかを聞いてみると

なんと、帰りの客がいれば…という条件付きでした。

やむを得ず、急行列車で出発。

ビュッフェがついていたので、3人でビールを飲みながら夕食。

わたしはあまり飲める方ではないので、二人より先に席に戻りました。

膝が急に暖かく…!?

で、かなり時間が経ってから二人がもどって来ると、

“いや~もうビールないんだって”と二人とも上機嫌。

二人はわたしのむかいに座ると、田辺が急に

「落合、悪いちょっと膝かしてくれ」というと、

わたしの膝に顔を埋めて、しばらくすると
膝が妙に暖かくなりました。

その暖かさの原因がすぐに理解できました!

ヤバい!

わたしの膝の上で嘔吐したのです。

さあ大変!田辺の顔をどけると、わたしの膝の上がヤバいことに…!

それだけでなく、田辺の嘔吐が止まりません。

その汚物を山鹿とわたしのタオルで拭き取っては

車外に放り投げ捨てていましたが、とてもそんなものでは足りません。

周りの人たちも、気のどくがって?
拭き取るためのいろいろなものを差し出してくれましたが、

それでも足りず

ついに、わたしも山鹿も自分のポロシャツを脱いで

拭き取りにあたりました。

仙台駅に着いたときは上半身「裸」

それやこれやで、やっとのことで仙台駅に着いたときは、

大の男3人が上半身裸、おまけに下駄履き姿で

一人をおぶうような格好で、あわててタクシーに乗り込み、
寮の布団に潜り込みました。

翌日、上半身裸のまま寮の朝食をすませると

恥ずかしいけれど着られるものはなにもありませんので、
そのままデパートに直行。

色柄無視で、とにかくサイズの合うものを購入。

左 山鹿  右 俺
左 俺  右 田辺

3人おそろいのポロシャツ

後ろは松島。

昨日の大騒ぎがあったとは思えないけどネ…

七夕の夜遅く

揃いのポロシャツを購入したあとは、もう昨日のことは
なかったかのように元気で、松島の海岸で海水浴を楽しみました。

ところで、仙台といえば松島の牡蠣や笹かまぼこなどが有名ですが

わたしにとって一番忘れられない味は、松島から仙台に戻った
その夜遅く、何故かおでん屋さんの屋台が出ていて
そこで食べた「蕨」を束ねたおでんの味が忘れられません。

いまだにこの蕨のおでんの話を、誰かれなく振ってはみるのですが
蕨のおでんを食べたことがあるという人に出会ったことが一人も
いないのが残念でなりません。

突然!唐突に…

その翌年、わたしの職場に電話が入り、何ごとかと

電話に出ると、信じられないことが告げられました。

山鹿が死んだ!というのです。

えっ!なんで?どうして?どうなってるの?

なにがなんだか理解不能のまま、取るものもとりあえず
彼の実家のある藤沢に向かいました。

葬儀の様子がどうであったか…など、その時の様子は全く覚えていません。

けれど、藤沢から帰る湘南電車の中ではボロボロと涙が止まらず

込んでもいない電車なのに、座席に座るのが恥ずかしくて
出入り口に立ったまま横浜まで乗ってきたのを今でも鮮明におぼえています。

後に彼は寮にいるときに心臓麻痺で亡くなったと知りましたが

死因がなんであれ、彼がわずか19年しか生きていられなかった…

そのことが悔しく、悲しく、例えようのない不思議さを感じていました。

3人組が2人になって…

山鹿がいなくなって

3人組が田辺と二人だけになってしまいましたが

その後、田辺の勤務地が横浜駅近くだったこともあって
以前のように金沢文庫で会うことがなくなり、
もっぱら伊勢佐木町近辺で会うことが多くなりました。

その二人の話もまだまだ紆余曲折があって、話が延々と続きそうなので

今回はここまでにして、改めてこの続きの記事をアップ
させていただこうと思っています。

この記事以前の話は「悪ガキ3人組」をご覧ください。

この記事の続きは「悪ガキ3人組が2人になって…」を御覧ください。

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