誰にでも故郷がありますが、その故郷への想いは人それぞれ、わたしにも懐かしむ
故郷がありますが、一言で故郷と言っても現実の地図上の故郷だけでなく、心の故郷
というものも存在しますよね…
ということで、そんな心の故郷も含めたわたしの故郷を紹介してみようと思います。
生誕地
わたしが産まれたのは横浜の本牧近くの上野町というところ。
といっても、そこでの記憶は全くありません。
なぜってわたしが産まれたのは、終戦の1年前。
そのため、産まれてすぐにおふくろの故郷、山形県の神町というところに
疎開したからです。
山形県神町での想い出
山形県の神町といえば、”さくらんぼの名所”として知られたところですが、
さくらんぼ以外にもたくさんの果物がとれるところです。
その山形県の神町には小学校1年生まで滞在していましたので、幼少期の思い出は
この神町での出来事がほとんどと言えます。
その頃どんな遊びをしていたかというと、公園に行って…とかは全くありませんで、
まさに自然児といったような遊び方で野山を駆け回っていました。
具体的にどんなことをしていたかというと、最初に聞いてもらいたい遊びがあります。
それは、夏の日の早朝に近くの年上の子供達と一緒に川であったか沼であったかは
記憶していませんが、そこでヤゴ(山形弁では確かあけずとよんでいたと思います。)
をみんなで採ります。
そのヤゴをどうするかというと、捕まえた分だけのヤゴを自分の胸にとまらせます。
そのヤゴ3~5匹を自慢気に胸に飾って家に向かいますが、その途中ヤゴの背中が割れ、
柔らかいトンボのはねが現れ始め、しばらくするとトンボ全体が現れます。が、まだ
羽が柔らかいので飛び立つことができず、胸に留まったままです。
家の近くまで来るとすでに陽が昇っていて、人の往来も増えてくるので、このときが
子供たちにとって一番誇らしく、見せびらかしたいときなのです。
羽が少し硬くなったオニヤンマやギンヤンマ(当時は名前など知りませんでした…)
が胸に止まってじっとしているのです。
それはまるでたくさんの勲章を胸に飾って歩いているかのようだからです。
(この光景を写真に撮ってくれる人がいたらな…と今になって思います。)
それで、その後はどうするのかというと、羽が固くなったトンボが一匹一匹飛び立って
いくのを見ているだけのことですが、最後の一匹が飛び立つまで縁側に座ってじっと
トンボが飛び立つのを待っていて、トンボに触ることはありませんでした。
このように、トンボやセミを網で捕ったりした記憶がありません。みんな素手で捕って
いたんです。赤とんぼは畑の真ん中で人差し指を立てていれば、勝手に止まってきてく
れたので、捕まえるという感覚がありませんでした…
キノコ採り
虫取りや、たまに近くの川に父親に連れられて魚釣りに行くのも楽しかったですが、
それよりも、もっと楽しいことがありました。
それは、家の近くに松林があって、そこに母親と姉の3人でキノコ採りに出かけるの
ですが、その松林には「まんじゅ茸」というキノコが生えていて、そのキノコを
見つけるのが楽しみで、見つけたときの嬉しさは格別!
夢の中にまで出てくるほどでした…
そのマンジュ茸ですが、近年まで正式名称が分からずにいましたが、数年前にネットで
調べたところ、正式名称は「ヌメリイグチ(まんじゅうだけ)」というのだそうですが、
あまり美味しくないようなことが書かれていて残念です。でもわたしにはとても美味し
かったキノコで、今でも食べてみたいな~と思っています…
その「まんじゅうだけ」の形や大きさは、下の写真のようなものですが、丁度椎茸の
ようで、傘はなめこのようなぬめりがありました。
この他に野原で遊んでいると、大きな切り株にたくさんのなめこが生えていたりして、
それらを収穫するのは、とても楽しいことで遊び道具が欲しいなどということは一度も
感じたことはありませんでした…
”さくらんぼ”と”りんご”と”すもも”と・・・
神町は先に述べた通り、果物の栽培の盛んなところなので、よくサクランボの木
に登ってサクランボを食べたり、りんごやすもも、桃、栗、柿といった木の実や
果物もよく食べていました!というか、なんだか果物で育ったような気さえして
います。
そのリンゴは、子供ながらさすがに食傷気味で、熟れたリンゴではなく、熟れる前に
落ちてしまって売り物にならない青いりんごを塩漬けにしたもののほうが美味しく感じ
られたりしてました…
それから、この頃は果物に刃物を当てて食べた経験がありません。
りんごを2つに分けるときは、大人の人が手で半分に引き裂いて分けてくれてました…
後年、自分でもリンゴを素手で割ってみようと挑戦してみましたが、割れません
でした…残念!
冬の寒さ
神町もそんないいことばかりでなく、ここは盆地なので夏暑く冬寒いところです。
夏の暑さの記憶はあまりないのですが、冬の寒さはこの年になっても忘れられません。
当時はまだ未舗装道路がたくさんあって、その道路がコチコチに凍っていて、
その道の上を強風とともに這うように雪が下から吹き上げてくる寒さは、経験した
ものにしかわからない寒さ…だと思っています。
そんな冬の寒さも経験しましたが、その他にはなんの不自由さも感じずに遊び呆けて
いられた楽しい幼少期を過ごせたような気がしています…
再度ヨコハマへ…
小学校1年生の途中、横浜へ引っ越すことになりました。
子供なので、なぜ引っ越さなければならないのか、ヨコハマがどんなところなのかも
わかりませんでしたが、おふくろはヨコハマは都会で港があり大きな船も見られる…
というような話を聞かせてくれましたが、聞いても想像すらできませんでした…
ヨコハマに向かう途中、父親の生家「秩父」へ寄ることになりました。
父親の生家の秩父は養蚕の盛んな地域なので、見渡す限り桑畑といったような
ところでした。
その生家には、わたしと同年代のいとこ姉妹がいて、わたしが喋るたびに大笑いされ
たのをよく覚えています。
けれど、そのときのわたしにはその笑われている理由が分からず、ただただ戸惑う
ばかりでしたが、山形弁丸出しだったんですからね…
ただ、わたしは笑われた印象よりも、ホントはきれいな女の子に初めて出会った印象
のほうが強いのです。
なぜって、秩父に来るまでは山形の小学校に通っていたので、クラスメイトの中には
女の子もいたはずなのに、誰一人記憶がなかったのです。
ただ、担当の先生の名前(東海林先生)だけはよく覚えていました。
さて、その美人のいとこ姉妹と並んで撮った写真を後で見て見ると、照れているさま
がよくわかります。
その後父親に連れられて、近くにある観音様や、ダム見物をして楽しんだ後、いよいよ
ヨコハマにむかうことになりました。
「東海林」ってなんと読みますか…?
ところで、余談ですがこの苗字を皆さんはなんと読みますか?
わたしはこの時点まで「とうかいりん先生」と記憶していたのですが、
後にヨコハマに移ってからは、この「東海林」をとうかいりんと読む人がいなくて、
皆「しょうじ」と読んでいました。
「とうかいりん」と記憶していた自分は子供だったので、そのように記憶していた
だけだったのかな…と、疑心暗鬼の状態が、つい最近まで続いていたのですが、
最近になって、語学の専門家の方がTV番組の中で「東海林」というのは、主に関東
地方では「しょうじ」と読み、東北地方では「とうかいりん)と読むのが一般的だと
いうことをおっしゃっていました。
これで安心…というか、ホッとしたというか、自分の記憶が間違っていなかったこと
が証明されたので、なんとなく嬉しくなりました…
横浜に到着
横浜に戻ってきたと言っても、わたしの産まれたところではなく、南区の下町の
小さな家でした…
ヨコハマについてすぐに転校手続きなどをして、家から徒歩で15~6分ほどの小学校
に通うことになりました。
ところでこの頃の横浜といえば、終戦直後(敗戦直後)ということもあって、
現在のヨコハマからはとても想像できない風景で、伊勢佐木町付近には進駐軍
(今はこんな言い方はしませんよね、米軍のことです。)のかまぼこ型の兵舎が
並んでいて、その近くの映画館の(ピカデリーやオデオン座)などは、アメリカ人
専用といった具合で、いかにも敗戦国然としていました…。
そんな状態のヨコハマでしたから、最初のヨコハマの印象は良いものは何もなかった!
と言えるほどでした。
例えば川は汚いし、海も汚いし、伊勢佐木町と言っても名ばかりで大して見るものも
ないし、山下公園もまだ整備されていないただの広場でしたし、何よりも果物が
美味しくない!その中でも特にサクランボはただ甘みを感じるだけで、あのサクラン
ボの香りはどこにもありません…。
それでよく母親とこんなサクランボなら、アメリカのサクランボのほうがよっぽど
甘くって美味しいね、なんて話しをして、わたしも同感していたことを覚えています…
それから、トンボやセミを採るのも素手ではなく網やトリモチをつけて採るさまは
子供心に乱暴だな…と思って、素手で取ろうとしましたがヨコハマのトンボやセミを
手で捕まえる事はできませんでした…
さて、ヨコハマの小学校に通うことになって最初の日、おそらく学校の先生に言われた
のでしょう、近所の子供達3~4人が我が家に迎えに来てくれました。
いざ登校してみると、例によって山形弁を笑われることになりましたが、そのことが
その後に影響することもなく過ごせたのは、山形の小学校の授業の方が少し進んでいた
おかげだったこともあったように思います。
それと、容姿を人並みに産んでくれた親のおかげと思っているのですが、いじめにも
も合わず、ひがみを感じることもなく過ごせたのは幸運だったな…と感じています。
ただ4歳年上の姉にとっては、この山形弁の影響は後々まで糸を引いたようでした…
ヨコハマの生活に慣れて…
どこの地でも住み慣れればそこが都になるのは、どなたも同じではないでしょうか…
小学校、中学校と進むにつれ、わたしもすっかりハマっ子になっていくと同時に、
ヨコハマも次第に復興されはじめ、接収されていた所も徐々に開放されはじめ
ました。
港の近くにはマリンタワーができ、フライヤージムと呼ばれていた体育館も、多目的
文化体育館に生れ変わったり、ピカデリーやオデオン座も日本人に開放されました。
さて、食べ物も山形では食べることのなかった海産物の美味しさを知ることができる
ようにもなりました。
中でも、その頃夏になると横浜港近くの堤防でたくさんのワタリガニが捕れたので、
夏になるとカニを食べるのが楽しみでした。
大きなカニは茹でて、小さなカニは甲羅を剥がして、足も第1関節から切り落として
おふくろが甘辛の炒め煮にしてくれた味が忘れられません。
それ以来、わたしの好物のトップはカニになり、今もトップの座をしめ続けています。
余談になりますが、後年わたしは新潟の寺泊漁港へ行く機会があり、そこでは安い
カニが店の前の縁台で食べられるようになっていたので、一匹買ってその場で食べた
のですが、その食べっぷりを見ていた売店のおばさんが「あんた、ホントに美味しそう
に食べるね!もう一匹上げるよ!」と言ってくれて、一匹得をしました。
食いしんぼも時には得することがあるんですね…
しかし、カニをヨコハマで購入せずに食べられたのは、せいぜい中学校ぐらいまで
だったように思います。
カニが取れなくなった頃から、横浜の海はどんどん遠くなってゆき始めました…
海が見えた頃のヨコハマ
ヨコハマが発展するに連れ、海は遠くなるばかりですが、わたしが小中学校時代は
まだまだ海が身近にあり、本牧や磯子に子どもたちだけで潮干狩りに出かけたり、
当時流行っていた竹鉄砲を作るのに、三渓園の中にある八聖殿に生えている竹が
ちょうどいいというので、よくその竹を取りに行ったりしていました…
その三渓園の中の八聖殿は少し小高い丘になっているのですが、竹の生えている頂上の
裏側は切り立った崖になっていて” 一寸待て”という自殺防止の立て札が立てられて
いました。
その立て札の先にはきれいな海が広がっていて、帆を張った船がのんびりと浮かんで
いるさまは、子供心に美しいな…と感じていて、そこに竹を取りに行くのが楽しみで
した…
また、その近くの本牧には一の谷、二の谷、三の谷といった地名があり、そこは先程と
同じ海沿いの切り立った崖になっていましたので、源平合戦のひよどり越えってここの
ことなのかな…?それにしたって、ここはどう見ても馬で降りるなんて不可能だよな…
なんてずっと思っていたことがありました…
秩父の従姉妹が我が家に訪れました…
わたしが中学生の頃、秩父で出会った美人の従姉妹がおじさんとともに我が家を訪れ
てくれました。
とても嬉しかったのですが、大した会話もかわさずにヨコハマ見物にでかけました。
我が家から歩いて行けるところに自慢の場所があります。それは山元町から外人墓地
まで続く山手通りです。
山元町から少し坂を登っていくと、すぐ右手にカソリック協会があり、その左側には
フエリス、雙葉、女子商業などの女学校があり、その先の右側はアメリカ人の住宅が
立ち並んでいて、日本の住宅地とはまるで違うアメリカの住宅地と言った感じのする
家並みが続いていました…。
そんな山手通りを、外人墓地から、山下公園あたりまで歩いてヨコハマ見物をしたの
だったろうと記憶しているのですが、従姉妹とはこのとき以来会う機会はなくなって
しまいました…
それから、いつかもう一度会いたいと思っていましたが、そんなことは恥ずかしくて
両親に言えるはずもなく、いつか月日は流れ、10年も経った頃でしょうか…
思いがけず秩父に行くチャンスに恵まれました。
それは戸籍謄本を秩父の役所に取りに行く必要が生じたからです。
小学生の時以来の秩父!
今考えるとよく父親の生家や役所がわかったな…と思うのですが、その時は誰かに
聞きながらたどりついたのでしょう…
自分の背丈ほどもある桑畑の間を通って役所に行ったことを記憶しています。
ところで、わたしの父親の兄弟はみんな顔立ちがそっくりで、秩父のおじさんも、
千葉のおじさんも、みんなよく似ています。それが役所について歴代の村長さんの
顔写真が入ってる額が飾ってあるのですが、そのうちの一枚が父親やおじさんたちに
そっくりなので、何代か前のおじいちゃんなんだな…とすぐに納得しました…
役所の帰り、なんの事前連絡もなしに、思い切って父の生家をを訪れてみました。
かなり緊張して玄関を開けました…が、わたしの心配をよそに、突然の訪問にも関わ
らず、いやな顔どころかとても歓待してくれて、お昼ごはんまでご馳走になりました。
残念ながらこの日従姉妹は不在でしたが、この温かいもてなしと、桑畑の光景は忘れる
ことのできない一日となりました…。
ですから未だに秩父といえば、この日のことが真っ先に思い起こされます…。
ところで、時々思うのですがあの桑の実って、今、この年になって食べても美味しいの
かな…?
なんて思ったりしています…
さて、その日から更に10年も経った頃、わたしの父親が他界しました…
その葬儀の時、なんと従姉妹たちが来てくれたのです…!
それは、親父が亡くなった悲しみとは別に嬉しさが込み上げました…
そんなことがあった後、盆には毎年母親と秩父にいくようになり、従姉妹の新築した
ばかりの家に母親と一緒に一泊させていただいたこともありました…。
しかしその後、母親が認知症を患った後に亡くなってしまったこともあって、なんと
なく秩父も遠くなってしまい、疎遠になってしまいましたが、秩父の皆さんの温かさは
今も忘れたことはありません。
こんなわけで、秩父はわたしが育った故郷ではありませんが、大切な心の故郷なのです!
すっかりヨコハマから話がそれてしまいましたが、小学校1年から30年以上過ごした
ヨコハマなので、思い出話やエピソードを枚挙したらきりがないほどあります…。
けれどその話を一つ一つ取り上げてたら終わらなくなってしまいますので、このあたりで
終わろうと思いますが、最後にハマっ子を自認する人たちに共通しているモノを紹介
したいと思います。
ハマっ子の証…!?
おそらく他の都市の出身者の方々には、理解できないこと…だと思うのですが
それは、”我が日の本は島国よ、朝日かがよう海に、連なりそばたつ島々なれば…”
という詞を見たら、すぐに口ずさめる人。それがハマっ子です!
えッ!???と思われるかもしれませんが、これは横浜市歌の歌詞の一部なんです。
横浜市民なら、ほとんどの人がこのヨコハマ市歌を歌えるはず…?!です!!
ちなみにわたしもこの齢になっても、時々無意識にこの歌を口ずさんでいることが
あります…。
実は大分前ですがラジオ番組の中で、横浜の話題になったとき、TBSのアナウンサーの
遠藤泰子さんという方が、わたしも横浜出身なので歌えますよ…といって口ずさんで
おられたことがあって、なんだか嬉しくなりましたね…
ま、それでももう若いハマっ子は横浜市歌なんて歌わないのかもしれませんけど…ネ
ということで、長々と書きましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
30代で横浜をあとにして、現在の埼玉県の三芳町に移り住んで、すでに40余年が過ぎて
しまいました。横浜に住んでいた年数を超えるが時間が経ったことに自分自身なんだか
不思議な気もしていますが、わたしはこの街も大好きです。
今ではすっかり埼玉県人になったつもりでいます。
いつかこの三芳町をわたしの故郷として紹介できたら…と思っています。
最後の最後までお読みいただき、ありがとうございました。
横浜の悪ガキ時代の「悪ガキ3人組」「悪ガキ3人組(後編)」「悪ガキ3人組が2人に
なって…」も、読んでいただけたら嬉しいです。